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  • 映画『熊座の淡き星影』 姉弟相姦、デカダンはここから始まる

    映画『熊座の淡き星影』 姉弟相姦、デカダンはここから始まる

    映画『熊座の淡き星影』  VAGHE STELLE DELL’ ORSA

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    ヴィスコンティの後期の作品への転換となる

    人間の果てしない欲望、美しい姉弟の禁断の愛を描いてみせる。
    禁断の愛を巡る、その時点の嫉妬や過去の嫉妬、そして父の思い出に対する思い。
    人間の最も美しい筈の愛の形が、姉弟と言うものの結び付きで表された時、それは周囲の人々からは最も醜悪なものとして映し出される。

    姉サンドラと弟ジャンニにとって、過去においての思いは美しいもので有ったに違いない。
    サンドラにとっては、それは過去の話で、今においては忘れ去りたい思い出になっている。
    しかしジャンニは今においても美しい思いなのである。
    その違いは何か?そこに有るのは人と人との結び付きなのである、人は人との関係の中で生きていく。
    姉弟は、父が母の密告によってアウシュビッツの収容所で死んでいったと言う思い出の中で、人との結び付きを拒絶した。
    そのことが禁断の愛へと二人を走らせる。
    時は経ち、姉は父の思い出をトラウマとしながらも新しい愛を見つけ、それに旅立とうとしている。
    弟はトラウマを断ち切れず思い出として心にしまう、いや思い出の中に生きている。
    そう過去と今が交差する、その時それは耐えきれない破綻を生み、そして弟は自らを滅ぼすしか選択肢はなくなっていく。

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    ヴィスコンティのこれ以降の作品に見られる、過去と現代の悲劇がそこに現れている。
    ここには、一つの夫婦、一つの姉弟、それを取り巻く小さな村の人々の物語である。
    その中に見事なまでに、人間の本質、孤独と欲望、その先に有る破滅を描いてみせる。
    そしてその映像はあくまで美しく、美しいからこそ、そこに映し出される人間の本性の醜さが浮き彫りにされていく。
    クラウディア・カルディナーレが妖しいまでに美しい。
    野性的な美とミステリアスな表情・・・肉体的な妖艶さと幼さを感じさせる表情、大きく猫のような瞳、彼女をこれ程までに魅力的に描いた作品は他にはないだろう。

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    映画『熊座の淡き星影』のデータ

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    VAGHE STELLE DELL’ ORSA (SANDRA: OF A THOUSAND DELIGHTS) 105分 1965年 イタリア

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■フランコ・クリスタルディ
    プロダクション・オーガナイザー■オスカール・ブラッツィ
    原案■ルキノ・ヴィスコンティ
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/エンリコ・メディオーリ
    撮影■アルマンド・ナンヌッツィ
    音楽■セザール・フランク
    演奏■アウグスト・ドッターヴィ
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■アリオ・ガルブリア
    衣装■ビーチェ・ブリケット
    助監督■リナルド・リッチ

    製作会社■ヴィデス
    備考■白黒
    日本公開■1982年11月
    出演■クラウディア・カルディナーレ/ジャン・ソレル/マイケル・クレイグ/マリー・ベル/レンツォ・リッチ/フレッド・ウイリアムズ/アマリア・トロイアーニ

    ◆ヴェネチア国際映画祭 1965年
    サン・マルコ金獅子賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ
    チネマ・ヌオヴォ賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ

    【解説】
     ギリシア悲劇の『エレクトラ』になぞらえた、この中部イタリアの古都が舞台の、貴族階級の孤児院の姉弟の禁断の愛を描いた作品は、ヴィスコンティの絢爛たるデカダン絵巻の後期作風への転回点ともなる重要作。主人公らはまだうら若き男女であり、「イノセント」の醜悪なまでの気高さを持つには至らないが、それでもここに描かれた貴族の滅びの美学は、作者の自らの出自に対する拘りと憐れみを存分に感じさせ興味深い。
     結婚まもない米国人の夫と共に、NYでの新生活を前に、故郷ボルテッラの実家を訪れたサンドラ(C・カルディナーレ)は、幼い時に父をアウシュビッツの収容所で亡くしていた。今や屋敷は再婚後、精神をおかしくした母(M・ベル)と義父(L・リッチ)のものであり、弟ジャンニ(J・ソレル)が肩身の狭い思いで彼らと同居していた。姉と彼との精神的絆は強固で、別々の寄宿学校にやられそうになった際も二人してそれを頑なに拒んだものだった。夫アンドルーは次第にその中に立ち入れないものを感じ始める。彼はまた、不仲の義父と姉弟の間をとりもとうとして失敗。置き手紙を残し、先にNYへと発ってしまった。弟は姉に兄弟愛以上の感情を持ち続け、それは今も変わらない。が、姉は弟の気持ちを振り切ってジャンニは衝撃を受ける。屋敷の一部を図書館として町に寄贈したことの返礼の、父の胸像の除幕式が執り行われ、サンドラが出席する一方、ジャンニは自室で服毒自殺を図り、既に事切れていた…。
     義父と母が密告して父を逮捕させた疑惑が作品を暗くミステリアスに縁取って、幻灯機で天井に映した星座–ちょっとしたプラネタリウムに、二人寝床の中で眺め入る…といった姉弟の幼少期の思い出が甘美に綴られるあたり、大変印象深い。(映画データベース – allcinema より)

  • 映画『山猫』 ヴィスコンティの前半を飾る大河ドラマ

    映画『山猫』 ヴィスコンティの前半を飾る大河ドラマ

    映画『山猫』 IL GATTOPARDO

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    雄大な歴史的な背景から詳細な描写までを描ききる

    この作品、シチリアのバルマ公爵ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドャーザが、死ぬ前年1957年に書き上げた長編小説をヴィスコンティの数々の作品(『夏の嵐』、『イノセント』)を手伝っている、スーゾ・チェッキ・ダミーコ他3名が脚色した。
    また当初161分の作品として公開されたが、カンヌ映画祭に出品の際にオリジナル版(イタリア語)が公開さている。

    なんと言っても、ヴィスコンティの一大叙事詩であり、大河ドラマでも有る。
    この作品は、イタリア版『風と共に去りぬ』とも言える。

    『風と共に去りぬ』では、南北戦争の中、南部が時代に取り残されていく。
    ここでは、イタリア統一戦争の中、貴族である公爵家が没落していく。
    『風と共に去りぬ』はアメリカの物語らしく、明日への希望に満ちている。
    この作品は、あくまで貴族の後ろ姿を描く。

    ヴィスコンティの作品の中では、非常にストーリーが分かり易い。
    ただ、これだけの大きな展開のドラマ、少し冗長な面も有るが、ヴィスコンティの演出に破綻は感じられない。
    むしろバート・ランカスターを除く、脇の俳優陣の演技が全体的に薄くなっいるように感じる。
    と言っても、それはヴィスコンティの他の作品に比べての事。
    アラン・ドロンも非常に魅力的で野心を持った青年を好演。
    また貴族と新興ブルジョワとの関係を見事に演じた、クラウディア・カルディナーレも魅力的。

    そして物語のダイナミック部分をそれ以上に素晴らしい映像で包み込んだ。
    全てのセットに本物を使い、本当の贅沢、豪華というものを、ごれでもか!と言うくらいに見せ付ける。
    ラスト近くの舞踏会のシーンは、圧巻!
    立派な内装と美しい調度品に囲まれた数々の部屋をいくつも使用して全員で踊るシーンは、これ以上は無いという豪華さ、本物がそこにある(実際は、室内を明るくするためにかなりの照明が必要だったようだ)。

    貴族の生活が余りに豪華なため、それを失うことを映し出すラスト・シーンは余計にもの悲しい。銃声の音が、力による時代の変化を表現する。

    il-gattopardo

    英語版(2時間41分)について。
    こちらの尺は、イタリア語版(3時間25分)に比べ大幅にカットされている。
    と言うのも、膨大の資金を調達するに当たって、ハリウッドの20世紀フォックスの協力を得たためで、映画館の回転数を意識した20世紀フォックスの意向で短くされている。

    それはともかくとして作品自体、改めて観ると短い感じがする...別にイタリア語版が有るというのを知っているから、そう思うのではない。

    この映画には、大きく2つのストーリーが混在している(筈だ)。
    1つは、主人公の老公爵(と言っても40代だと思ったけど)の物語。
    そしてもう1つは、アラン・ドロン演じる公爵の甥とカルディナーレ演じる資産家の娘の物語。
    1つ目の話が、映画が進むうちに徐々に収束して行き、2つ目の話が徐々に拡大していく、対象をなす形だと考えずにはいられない。
    その点で、2つ目の話が特にアラン・ドロンがカルディナーレに恋する背景や、カルディナーレが街娘から淑女に変わっていく様の描写が、少ないような気がして物足りなさを感じさせる。

    この作品はヴィスコンティの後期の傑作群に繋がるテーマが見受けられる。
    それは古い世代が滅び行く美学。
    バート・ランカスターが見事に、力強く過去の世代の老公爵を演じれば演じるほど、その悲しみの深さが画面ににじみ出る。
    老侯爵は、頑固であり、しかし理解者であり英知の人でも有る。
    それは老侯爵が他の登場人物より見た目の体格でも一番大きく、それ自体、威厳を象徴している。

    この映画の魅力的な点は大きく二点。
    一つは俳優の魅力である。
    バート・ランカスターは見事なまでに老侯爵の立場を演じて見せた。
    そして若い二人の俳優、アラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレは若々しさ、そして美しさ、どことなく品のなさと悪魔的なところ、ドロンとカルディナーレは見事に共鳴しあう。

    私の好きなシーンは、カルディナーレがパーティーで、バート・ランカスターにワルツを一緒に踊るよう申し込むシーン。
    そしてワルツを踊っている二人を見つめるアラン・ドロンの表情が大好き。

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    もう一つのこの作品の美点は、そう背景のディテイルに有る。
    イタリアの解放戦争を描くため、数多くのエキストラを配しロケを敢行したこと(確かにお金が掛かる)、そしてパーティーのシーン等 の“部屋”。
    そこに生きている人々の位置づけを、部屋を見せることで観客に圧倒的な映像で見せつける。

    雄大な歴史的背景と、ディテイルの美しさ細やかさ、そして人物描写の克明さ、映像の持つ力をこの映画で知ることになる。

     

    映画『山猫』のデータ

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    IL GATTOPARDO (THE LEOPARD) 205(161)分 1963年 イタリア=フランス

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■ゴッフリード・ロンバルド
    原作■ジュゼッペ・トマージ・デ・ランペドゥーサ
    脚本■スーゾ・チェッキ・ダミーコ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/エンリコ・メディオーリ/マッシモ・フランチオーザ/ルキノ・ヴィスコンティ
    撮影■ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ/フランコ・フェルラーラ(指揮)/サンタ・チエチリア国立音楽院管弦楽団(演奏) 『ヴェルディの未発表のワルツ』
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■マリオ・ガルブリア
    衣装■ピエロ・トージ
    助監督■リナルド・リッチ/アルビーノ・コッコ
    製作会社■20世紀フォックス/ティタヌス/SNPC/SGC
    備考■テクニカラー/テクニラマ
    日本公開■1964年、1981年完全版公開
    出演■バート・ランカスター/アラン・ドロン/クラウディア・カルディナーレ/リーナ・モレッリ/パオロ・ストッパ/セルジュ・レジアーニ/ロモーロ・ヴァッリ/レスリー・フレンチ/イーヴォ・ガルラーニ/マリオ・ジロッティ/ルッチラ・モルラッキ/ピエール・クレメンティ/ジュリアーノ・ジェンマ/イーダ・ガッリ/オッタヴィア・ピッコロ/ハワード・N・ルビエン

    アカデミー賞 1963年
    衣装デザイン賞(カラー)ノミネート ピエロ・トージ

    1963年カンヌ国際映画祭
    パルム・ドール授賞 ルキノ・ヴィスコンティ

    【解説】
     巨匠L・ヴィスコンティ監督が実在の貴族ランペドゥーサの小説を基に、B・ランカスター、A・ドロンら豪華競演陣を配して貴族の斜陽を重厚に描いた壮大なドラマ。日本公開においてはまず64年に大幅に短縮された英語国際版が上映され、次いで81年にイタリア語のオリジナル版、そして2004年に完全復元版が公開された。
     1860年春、統一戦争下のイタリア。腐敗した貴族支配からの解放を目指す統一運動の波は、ここシチリア島にも押し寄せる。そのシチリアを300年の長きに渡って統治してきたのは“山猫”の紋章を持つ名門貴族サリーナ公爵家だった。自らの終焉を感じながらも、これまで通り優雅に振る舞う公爵。一方、彼が目をかけていた甥のタンクレディは革命軍に参加し、機敏に立ち回る。ある日、片目を負傷し休暇の出たタンクレディは、避暑に向かうサリーナ公爵一家と合流、やがてそこで新興ブルジョワジーの娘アンジェリカと出会い恋に落ちるのだった。(映画データベース – allcinema より)

    山猫を紋章に持つ貴族ファブリッツォ公爵家は、300年の長きに渡ってシシリーに勢力を誇っていた。だが、イタリア統一運動の波はシシリーにも押し寄せ、公爵の甥は義勇軍に身を投じる・・・。
    実在の貴族ランぺドゥーサの小説をもとに、ヴィスコンティが貴族の斜陽を重厚に描く。
    イタリア語版が205分のオリジナル、英語版は20世紀フォックスの要望により、161分となっている。
    日本で公開されているのは英語版で、カンヌ国際映画祭ではイタリア語版でグランプリのバルム・ドールを授賞。
    またマーティン・スコセッシが設立したThe Film Foundationとグッチの資金提供により、2010年に約1億円の費用と1万2000時間をかけて修復されたものが、日本でも劇場公開がされている。

  • 映画『ボッカチオ’70』 ヴィスコンティらイタリアの巨匠たちのオムニバス

    映画『ボッカチオ’70』 ヴィスコンティらイタリアの巨匠たちのオムニバス

    映画『ボッカチオ’70』 BOCCACCIO ’70 : Il Lavoro

    boccaccio-70

    短編四つからなる、オムニバス形式の作品。
    イタリアの現代劇を、イタリアの4人の巨匠(モンチェッリも巨匠なのかな?)が、独自のストーリーで語っていて、それぞれに特徴が有り面白い作品に仕上がっている。

    ヴィスコンティは第3話「前金」(主演:ロミー・シュナイダー)の挿話を担当している。

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    第1話「レンツォとルチアーナ」(劇場公開時は、第2話)

    会社に黙って結婚した若いカップルが、親との同居の問題や、上司のセクハラ?の問題にぶちあたり、最後は...と言う、若いカッ プルの右往左往ぶりを軽いタッチでさわやかに描いている。
    当時のイタリアの若者達の生活が垣間見れて面白い。
    まっ当時も今も、若い夫婦の悩みは余り変わらないのかも。
    監督の個性が余り感じられない分、判りやすく見易い、逆に物足りないと感じるかも。

    第2話「アントニオ博士の誘惑」(劇場公開時は、第1話)

    boccaccio-70

    これはもう、フェリーニ、フェリーニ、フェリーニで有る!
    物語の進行役に子供の天使?が現れ、ちょっと甲高い声で観客を物語の中へ導く。
    そしてそこに出てくる堅物教授もまた、フェリーニのらしい人物像である。
    それらの人物をフェリーニは、顔のアップで表情を映し出す。
    フェリーニは、時に人々の動きを踊りであったり、群衆によって表現し、そして対照的に人物の表情一つ一つを強烈な顔のアップの映像で映し出す。
    ヒッチコックは、“内面に燃えるような情熱を持ちながら表面上は氷のようにすました女性”を好んだが、フェリーニは見るからに情熱的な女性こそが男性を虜にすると言う、“男の性”を画面に映し出す。

    アニタ・エバーグはフェリーニの女優らしい...そして彼女が、堅物の教授を虜にしていく姿、そして最後の教授の露わな惨めな姿が、男の本性なのである。
    短編ながら見事なフェリーニらしい傑作である...
    ただ、やっぱり私は、フェリーニの語り口は苦手で、それでいて好きなのだ。

    第3話「前金」(劇場公開時は、第3話)

    boccaccio

    今回観た中では、原題の日本語訳が「仕事中」になっていたが、書籍等で見る限り「前金」と言うタイトルが正しいのか?

    ヴィスコンティが描いた女性は庶民ではなく、ブルジュワの女性。
    彼女の立場とその哀れさを見事にこの短編の中に描いている。
    そして、その登場人物の描き方が余りにも見事過ぎることに、やはり短編だったとしてもヴィスコンティらしい素晴らしい作品と言える。

    仕事というものに意識がない(仕事が何かを理解をしていない)ブルジュワの女性が、仕事を理解する時、その彼女の立場が如何に不毛で悲劇的なものか、その属している階級から逃れられないかを、この短い時間の中で描ききっている。
    素晴らしいのは、主演のロミー・シュナイダーである。
    彼女は、一見うぶな女性でありながら妻としてのしたたかさ、それ以上に魅力的な女性を演じ切っている。
    その魅力こそが、夫婦間に置いても男女の関係を成り立たせていることを、観客に納得させる演技力・魅力を兼ね備えている。
    キューブリック監督の遺作『アイズ ワイド シャット』とある意味、テーマが近いのかもしれない(語り口は、全く違うので作品の評価とは直接関 係ないが...)。
    しかしラストは圧倒的に、この作品の方が深刻で深いものを感じる。

    この作品では、主演のロミー・シュナイダーがシャネルのデザインの洋服を着ている。
    また歩き方や身のこなし方もシャネルが指導したらしい。
    そうヴィスコンティに、ジャン・ルノワール監督を紹介したのは、ココ・シャネルだったんですね。

    第4話「くじ引き」(劇場公開時は、第4話)

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    デ・シーカらしく、庶民の一人の魅力的な(そしてグラマラスな)女性に対する思いと、そのドタバタぶりをコミカルに描いている。
    残念ながら、この物語でキーになるのは主演のソフィア・ローレンの美しさに有るはずだが、どうも私の好み(の女優)ではない。
    デ・シーカの描きたいのは庶民なのである。
    一生懸命働いて得たお金を、女性とのSexのためのくじ引きにつぎ込んでしまうおじさん達。
    そして、くじを買ってから、みんながその女性を見に行く下りは、可笑しさと悲しさが込み上げくる。
    結局、くじに当たったのは、教会の仕事をしている童貞の男性(30代?、40代?)。
    彼はやらずじまいで追い返されるのだが、周りの人は真実を知らずお祭り騒ぎになる。
    彼女が真実の愛を選ぶと言う過程の話しと言うより、やはり振り回される男達の愚かさを笑いと共に描いている点で、デ・シーカら しく面白く観れる作品だった。

    どの話も個性的で面白い。
    共通していることは、どの作品も女性が男を振り回すのである。
    必見の映画と言いたい、機会が有れば是非。

    映画『ボッカチオ’70』のデータ

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    BOCCACCIO ’70 198分 1962年 イタリア=フランス 公開情報:劇場公開公開年月:62. 65

    監督■ヴィットリオ・デ・シーカ/フェデリコ・フェリーニ/ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■アントニオ・チェルヴィ/カルロ・ポンティ
    脚本■チェザーレ・ザヴァッティーニ/フェデリコ・フェリーニ/エンニオ・フライアーノ/ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    撮影■オテッロ・マルテッリ/ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ/アルマンド・トロヴァヨーリ/ピエロ・ウミリアーニ
    製作会社■コンコルディア・チネマトグラフィカ/チネリッツ/フランシネックス/グレイ・フィルム
    備考■イーストマン・カラー
    日本公開■1962年
    出演■ソフィア・ローレン/ルイジ・ジュリアーニ/アニタ・エクバーグ/ペッピノ・デ・フィリッポ/ロミー・シュナイダー/トーマス・ミリアン

    第一話=アントニオ博士の誘惑
    Le tentazioni del dottor Antonio 54分
    監督■フェデリコ・フェリーニ
    脚本■フェデリコ・フェリーニ/トゥッリョ・ピネッリ/エンニョ・フライアーノ
    撮影■オテッロ・マルテッリ
    音楽■ニーノ・ロータ
    美術■ピエロ・ズッフィ
    編集■レオ・カトッツォ
    出演■ペッピーノ・デ・フィリッポ/アニタ・エクバーグ/ドナテッラ・デッラ・ノーラ/アントニオ・アックァ/エレオノラ・マッジ(キューピット)

    第二話=レンツォとルチャーナ
    監督■マリオ・モニチェッリ
    出演■マリサ・ソリナス/ジェルマーノ・ジリオーリ

    第三話=前金
    Il Lavoro 46分
    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    原案■チェーザレ・ザヴァッティーニ(モーパッサンの短編『寝台の端で』による)
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    撮影■ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ
    編集■マリオ・セランドレイ
    出演■ロミー・シュナイダー/トーマス・ミリアン/ロモーロ・ヴァッリ/パオロ・ストッパ

    第四話=くじ引き
    監督■ヴィットリオ・デ・シーカ
    出演■ソフィア・ローレン/ルイジ・ジュリアーニ/アルウィオ・ヴィータ

    【解説】
     元々は4編のオムニバスだが、日本劇場公開版はマリオ・モニチェッリの監督したエピソードをカット(現在、発売されているビデオには収録。『デカメロン』の中世イタリアの作家ボッカチオが現代に生きていたら、こんな挿話をその著書に書き入れたかも知れない–。そんな発想で生まれた物語四編を、イタリア映画お得意のオムニバス形式で映画化した62年度作品(だから題名の“’70”は当時から見たら近未来を指していたのだ)。日本では無名のM・モニチェッリの担当作(結婚間近の男女の日常を明るく描いたもので、日本人には親しみやすい素直な青春譚だ)はカットされ、残るすでに知られた巨匠たちの三編で公開となった。現在は1・2巻に分かれビデオで完全な形で観られる。第一話デ・シーカの「くじびき」。北イタリアの片田舎で、遊園地の射的場を営む父の借金のカタに、クジの一等賞にされる娘ゾーエ(ローレン)をめぐっての男たちの狂騒をペーソスを漂わせつつコミカルに綴っている。ゾーエには隣村に恋人がいたが、一等を当てた冴えない寺男の母に“一生の想い出に一夜だけでも息子とつきあってくれ”と懇願される……。第二話は「誘惑」、フェリーニ作。熱心なカソリックの道徳家アントニオ博士は、部屋の前の広場に建てられた大看板のグラマー美女(エクバーグ)に激昂するが、いつしかそれは夢にまで現われ……というフェリーニ的な大らかなユーモアが実に楽しい。三話目はヴィスコンティ「現金」で、貴族の若夫婦の倦怠を皮肉っぽく描く。浮気性の夫をやりこめようと、娼婦に化けて誘惑の電話をしたはいいが、あまりに素っ気なく話に乗ったので、シラけた妻はそれから夫と寝る際には報酬を要求することに決める。いずれも作者の持ち味の出た作品の並んだ好企画と言えよう。(映画データベース – allcinema より)

  • 映画『若者のすべて』 美しいアラン・ドロンとヴィスコンティの出会い

    映画『若者のすべて』 美しいアラン・ドロンとヴィスコンティの出会い

    映画『若者のすべて』 ROCCO EI SUOI FRATELLI

    rocco-e-i-suoi-fratelli

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    2016年12月 4Kデジタル完全修復版 について

    今回日本で公開が実現したのは、マーティン・スコセッシ設立のザ・フィルム・ファンデーションとGUCCIの資金提供により、フィルムを4Kで修復して2015年に完成したもの。
    当時の撮影監督:ジュゼッペ・ロトゥンノの監修により当時の映像を再現。
    また1960年当時、検閲によりカットされた2つのシーンを追加されて2分間尺が延びている。

    改めてこの作品を見ると、ギリシャ神話のような骨太な物語になっている。
    実際、ヴィスコンティは新約聖書やトーマス・マンの「ヨゼフとその兄弟」、ドストエフスキーの「白痴」をイメージしていたと言うし、新約聖書の「カインとアベル」、ようは『エデンの東』の兄弟関係も見え隠れする。

    流石に今回の完全修復版は映像が、古い作品(特にイタリア映画だと保管状態が悪いケースが多い)だと縦線が入ったり、色味(今回はモノクロだが)が微妙に違ったりするが、全て修正されていて非常に美しい。
    改めて大画面の映画館で見る価値はある!

    -イタリア・ネオレアリズモの軌跡- 公式サイトはこちら

    『若者のすべて デジタル完全修復版』
    『郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル修復版』 2017年1月7日~
    『揺れる大地 デジタル修復版』 2017年1月21日~

    2016年12月24日(土)より新宿武蔵野館ほか全国順次公開

    アラン・ドロンとの出会いでリアリズムから耽美主義へ

    この作品を観ると、ヴィスコンティの二面性が見えてくる。
    一つはネオ・レアリズモの旗手としてのヴィスコンティと、もう一つは耽美主義的な作品を輩出したヴィスコンティ。
    『夏の嵐』以降に作品に見られる耽美主義的な側面と、それ以前の作品に見られたリアリズムが見事に融合している。

    イタリアの第二次世界大戦後の貧しい家族をリアリティに描くことの恐ろしさ。
    それを最も顕著に表現していたのは、ロッコ達5人兄弟の母親で有った。
    それは、お金に執着する姿...その度に背筋に冷たいものが走る。
    ヴィスコンティは、この母親を通してイタリアの戦後を描いてみせた。
    それはロッセリーニやデ・シーカの初期の作品に共通するものが有る。
    彼らの作品以上に、この作品(と言うかヴィスコンティ)が素晴らしいのは、リアリズムと同時に、そこに出てくる登場人物の描写が実に丹念で、その情念までも画面に映し出されてしまうことだ。

    rocco-e-i-suoi-fratelli

    と、同時にロッコ、シモーネとナディアとの三角関係を通して、愛の不毛を描いている。
    ロッコの聖人のような寛容な心とシモーネの世俗的な邪悪な心...それに翻弄される一人の女性ナディア。
    ヴィスコンティの後の作品『地獄に堕ちた勇者ども』と共通する、自由主義(個人主義)とロマン主義(全体主義)の対峙が既にそこに描かれている。

    この作品には、イタリアの貧しい生活を描いたリアリズムと同時に、人間に内在する2つの側面を兄弟を通して描いてみせる。
    人間の持つ欲望の恐ろしさを見事に描き、それが一つの家族を崩壊へと導く。
    第二次世界大戦直後という時代が、イタリアの人々、いや庶民の心を荒廃させた...本当の貧しさ、お金を持たないこと、それ以上に人を愛する心を失う事...いや、愛し方すら忘れた心、そんな思いを強く訴えかけてくる。

    rocco-e-i-suoi-fratelli

    愛の不毛と言えば、ミケランジェロ・アントニーニを思い出す。
    彼はヴィスコンティの下で映画を学んだ、この作品を観ていて、ふとそんなことを思い出した。
    また、この作品でのアラン・ドロンは、実に生き生きして清々しい魅力を振りまいていた。
    『太陽がいっぱい』と並ぶ、いやそれ以上の彼の名演技だと思う。

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    映画『若者のすべて』のデータ

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    ROCCO EI SUOI FRATELLI 177分 1960年 イタリア=フランス

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■ゴッフリード・ロンバルド
    原作■ジョヴァンニ・テストーリ『ギゾルファ橋』
    原案■ルキノ・ヴィスコンティ/ヴァスコ・プラトリーニ
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/マッシモ・フランチオーザ/エンリコ・メディオーリ
    撮影■ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■マリオ・ガルブリア
    衣装■ピエロ・トージ
    助監督■リナルド・リッチ
    製作会社■ティタヌス/フィルム・マルソー
    備考■白黒
    日本初公開■1960年
    1960年12月27日日本公開時:140分
    1982年6月8日完全版日本公開時:177分
    2016年12月24日デジタル完全修復版日本公開時:179分
    出演■アラン・ドロン/アニー・ジラルド/レナート・サルヴァトーリ/クラウディア・カルディナーレ/カティーナ・パクシヌー/ロジェ・アンナ/パオロ・ストッパ/スピロス・フォーカス/マックス・カルティエール/ロッコ・ヴィドラッツィ/コラド・パーニ/アレッサンドラ・パナーロ/アドリアーナ・アスティ/シュジー・ドレール/クラウディア・モーリ

    ヴェネチア国際映画祭 1960年
    審査員特別賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ
    国際映画評論家連盟賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ

     巨匠ヴィスコンティが悠揚迫らぬタッチでつづる、兄弟愛の大ロマンである。
    南部で貧窮にあえいでいたパロンディ家は、先に北部の大都市ミラノに出稼ぎに来ていた長兄ヴィンチェを頼って、老いた母と兄弟4人でやって来る(冒頭、広大なミラノ駅をガラス張りの天井越しに眺める俯瞰ショットが小さな母子たちをパンして捉える。大作の予感が充ち満ちる)。長兄には同郷出身の婚約者ジネッタ(カルディナーレ)がいたが、田舎出の彼らに対する風当たりは厳しい。
    そして、次兄シモーネ(サルヴァトーリ)が主に登場する第二部へ。彼は三男のロッコ(ドロン)と共にプロ・ボクサーを目指しジムに入ったが、娼婦ナディア(ジラルド)に夢中になり、自らその可能性を潰して、悪の道に陥る。が、そのナディアはロッコを愛し始め、これに憤ったシモーネは仲間と共に、ロッコの目の前で彼女を犯す(まさに圧巻の場面!)。ロッコのお蔭で立ち直りかけていたナディアだが、輪姦に心深く傷つき、再び街娼へと逆戻りした。
    そして第三部ロッコ篇。ロッコもまたナディアを諦めた。クリーニング店で地道に働いていたのだが、それも辞め、一家の期待を一身にボクサー稼業へ舞い戻る。一方、シモーネの暮らしは荒れに荒れ、結局、ナディアを誘ったバカンス旅行(豪華な園遊会を開くホテルを前にたたずむ二人が妙に寒々しかったのが記憶に残る)で彼女を殺してしまう(夜、森の池のそばで。これも凄まじいシーン)。ロッコがボクサーに復帰して5年経っていた。いよいよチャンピオンとなった彼を祝っている時、憔悴しきったシモーネが家に帰ってくる。彼にとことん侮辱され、また愛した女を殺されたロッコではあったが、今は何も言わず、泣きながら兄を抱き締めるのだった・・・。

     このネオレアリズモの総集編のような壮大な叙事詩を放ってのち、ヴィスコンティは、より典雅で耽美的かつ様式的な貴族階級を描く独自の世界に没入していくことになる。

  • 映画『白夜』 ヴィスコンティが描くドストエフスキーの世界

    映画『白夜』 ヴィスコンティが描くドストエフスキーの世界

    映画『白夜』 LE NOTTI BLANCH

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    ラストの雪の中のシーンが残酷で美しい

    ヴィスコンティ作品の中で、これ程、特殊な作品だったとは...初めて観た時、驚きも感じた。
    ある種、ヴィスコンティのイタリア、ネオレアリズモとの決別とも言える。
    それは、この作品がセットで撮られた事、それによる、より舞台的な演出がなされていること。
    しかし、ネオレアリズモとはかけ離れたところに行ったとしても、それはリアリズムの否定にはなっていない。
    この作品は、舞台的、また箱庭的で有ることで、より俳優の個性が観客側に強い印象を与える。
    そう、この物語では、全ての背景が排除されている、シェル演じる女性が愛した、ジャン・マレー演じる下宿人が何処へ行ったのか、 どういう人物なのか、マストロヤンニはどこから来たのか?純粋に登場人物の感情の表現だけで話が進んでいく。

    主演のマストロヤンニは、この作品で初めてヴィスコンティ映画に出演する。
    既に舞台では一緒に仕事をしている二人だが...
    マストロヤンニはイタリア男らしく、ある種、軽薄で有りながら、それでいて愛情深い男を見事に演じきっている。
    マリア・シェルは、ヴィスコンティの他の作品の女性像から少し離れたところに有る。
    それは少し夢想的な少女の趣を持っている。
    私は彼女に魅了されてしまった。
    出演場面は少ないが威風堂々としたジャン・マレーと、夢見る少女的なシェルとは正反対の娼婦役を演じたクララ・カラマイも印象的 だ。

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    マストロヤンニは幸せから不幸へ、マリア・シェルは不幸から幸福へ、このコントラストが限られた登場人物の中で色鮮やかに映し出される、映像は白黒なのに。
    私の好きなシーンに、マストロヤンニとシェルの最後の夜に酒場で踊るところ。
    二人が一時的に幸せに盛り上がる。
    心が揺れて、一瞬、二人の心が交差する、そうダンスを踊る二人の肉体のように。
    しかし、このシーンは実は二人の幸福と不幸が見事に入れ替わる象徴的なシーンであった。
    そして時間を知り、走り出すシェル...
    映像の持つ美しさと怖さが見事に表現されている、例えそれが演劇的な様式美であったとしても。

    le-notti-blanch

    暗く沈み込むようなストーリーを、美しく映像化し、そこに有るのは、人を愛する人間(マストロヤンニとシェル)へのヴィスコンティの深い愛情の現れだった。
    ラストの雪の中でのシーンは残酷で美しい...それこそが、ヴィスコンティの描くドストエフスキーの世界なのかもしれない。

     

    映画『白夜』のデータ

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    LE NOTTI BLANCH/QUATER NUITS D’UN REVEUR 107分 1957年 イタリア

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■フランコ・クリスタルディ
    原作■フョードル・ドストエフスキー
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    撮影■ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■マリオ・キアーリ/マリオ・ガルブリア
    衣装■ピエロ・トージ
    助監督■リナルド・リッチ
    製作会社■CIASヴィデス/アンテルモンディア
    備考■白黒
    日本公開■1958年
    出演■マルチェロ・マストロヤンニ/マリア・シェル/ジャン・マレエ/クララ・カラマイ/マルチェラ・ロヴェーナ/ディック・サンダース/マリア・ザノッリ/フェルディナンド・グエルラ/レオニルデ・モンテージ/アンナ・フィリッピーニ/ロマーノ・バルビエーリ

    ヴェネチア国際映画祭 1957年
    サン・マルコ銀獅子賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ

    【解説】
     貴族の側に立つにしろ、プロレタリアートの代弁者になるにせよ、ヴィスコンティの視線は常に冷ややかに透徹していたが、この悲恋物語は雪に閉ざされ残酷な結末が用意されているにも関わらず、ほのぼのと暖かい印象で胸に残るのは、即ち、主人公の青年(マストロヤンニ)に対し注ぐ彼の温かな眼差しゆえに他ならない。港町で青年マリオは橋上でたそがれる一人の娘ナタリア(シェル)を見初める。一年前に再会を約束した恋人を毎晩そこで待ちわびているのだ、と言う彼女、ナタリアをなんとか踊りに誘い出すマリオ。R&Rに合わせ愉快に踊って笑わせた後、曲は主題歌“スクーザミ”に替ってチーク・タイム。喜びに輝く青年の表情を見るうち、娘の心も彼に傾きかけたが、肩に回した彼の腕時計が無常に時を刻むのをふと目にし、その秒針の音にせき立てられるように橋上へ再び駆け出してゆく。しかし、待ち人はいない。降り始めた雪の中、追いかけてきたマリオと静かに語らうと心は休まった。そして夜は明けるが……。すべてが、セットという箱庭に咲かせた愛の白い花のごとき印象。ロトゥンノのカメラはこの人工美に確かな命を吹き込んでいる。(映画データベース – allcinema より)

  • 映画『夏の嵐』 ヴィスコンティの耽美趣味が見え始める

    映画『夏の嵐』 ヴィスコンティの耽美趣味が見え始める

    映画『夏の嵐』 SENSO


    senso

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    ヴィスコンティの見事なまでなメロドラマ

    1999年に渋谷BUNKAMURAル・シネマで観ることが出来た、この時はフランス語版。
    観終わって、なんて幸せなんだろう!と思わずにはいられなかった。
    物語は決して幸福な話ではない、むしろ悲劇的な最後に終わる。
    それでも、心の中はある種の幸せで満たされてしまう作品なのだ。

    この作品に対して、ヴィスコンティは2つのテーマを持って取り組んだらしい。
    一つはイタリアの解放戦争を舞台にした政治的なドラマ。
    もう一つは、男女の情愛を描いたメロドラマ。
    ヴィスコンティの意志は、もっと政治的なドラマに作りたかったらしいが、ラスト・シーンを含め、検閲等の問題で思い通りには撮れなかったらしい。
    その点を踏まえても、この作品は素晴らしいの一言に尽きる。

    映画が始まって、延々とオペラのシーンが映し出されるが、そのオペラ自体も素晴らしいのだが、それを背景としてドラマを進めていく凄さ。
    オペラはイタリアのある種、文化の象徴であり、その劇場で独立派がビラを巻くシーン、それはイタリア独立の雄叫びのようでもある、と併行にアリダ・ヴァリ演じる伯爵夫人リヴィアの立場と、そしてファーリー・グレンジャー演じるオーストラリア将校マーラー中尉との出会いが描かれる。
    やはり、ヴィスコンティの作品は、人物なのである。
    オペラやその劇場のセット、後のイタリアの田園風景、ヴェネチアの街並み、それらが素晴らしいにも関わらず、全てを背景に収め、人間ドラマとしての物語を描く上手さはヴィスコンティならではで有る。

    senso

    次第に、ヴァリとグレンジャーの不倫の愛が燃え上がる。
    ヴァリは無垢な愛を感じさせ、グレンジャーの愛には、どこか打算を感じさせる。
    しかし、ヴァリにしてもグレンジャーにしても、無垢なようで激しく、打算的なようで溺れていく、そんな愛の両面を描いていく。
    そう、愛とは不倫であろうがなかろうが、決して単純なものではないのだ。
    ヴァリ演じる伯爵夫人リヴィアは、イタリア解放への理想が愛の前で崩れ去り、自ら持つ誇りを失っていく。
    まるでイタリアが不遇の時代から、独立へと希望に満ちあふれていくのとは正反対のように。

    グレンジャー演じるマーラー中尉も、イタリアを支配する側のオーストリアのエリート将校でありながら、愛に溺れ、また打算に溺れ、彼もまた自分の誇りを失っていく。
    愛のためには全てを犠牲にした二人、その事によって二人は破滅へと向かっていく。

    ラストのグレンジャーがヴァリを罵倒するシーンの醜さ、自分の愛を見失い、全てを失い怒り狂って愛人(グレンジャー)を死に追いやるヴァリの恐ろしさ、愛の深さと繊細さが伝わってくる。
    ヴァリは無垢な女性から、徐々に情念的な女性へと、そして最後は恐ろしい女に変貌していく様を見事なまでに演じきる。
    この演技は、ヴァリの一世一代の演技と思わせる。
    グレンジャーの優男ぶりと繊細さも光る。

    ヴィスコンティは、この見事なまでのメロドラマ、人間のドラマを、奥行きのある深い映像と音楽で包みながら、あくまで人を魅せる事に集中している。
    人間、愛の脆さ、危うさを描きながらも、それを観る私の心は満たされていく...

    senso

     

    映画『夏の嵐』のデータ

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    SENSO/LIVIA WANTON CONTESSA 126分 1954年 イタリア

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■ドメニコ・フォルジェス・ダヴァンツァーティ
    原作■カミッロ・ボイト 『官能』
    脚本■スーゾ・チェッキ・ダミーコ/ルキノ・ヴィスコンティ
    脚本協力■カルロ・アリアネッロ/ジョルジョ・バッサーニ/ジョルジョ・プロスペーリ
    英語台詞■テネシー・ウィリアムズ/ポール・ボウルズ
    撮影■G・R・アルド/ロバート・クラスカー
    音楽■アントン・ブルックナー 『交響曲七番』/ジュゼッペ・ヴェルディ 『イル・トロヴァトーレ』
    音楽指揮■フランコ・フェルラーラ
    音楽演奏■RAI・TVオーケストラ
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■オッタヴィオ・スコッティ/ジーノ・ブロージョ
    衣装■マルチェル・エスコフィエール/ピエロ・トージ
    助監督■フランチェスコ・ロージ/フランコ・ゼッフィレッリ
    製作会社■ルックス・フィルム
    備考■テクニカラー
    日本公開■1955年
    出演■アリダ・ヴァリ/ファーリー・グレンジャー/マッシモ・ジロッティ/ハインツ・ムーク/リナ・モレッリ/クリスチャン・マルカン/マルチェッラ・マリアーニ/トーニオ・セルヴァルト/セルジョ・ファントーニ

    【解説】
     だって原題が「官能」(19世紀末のカミッロ・ボイトの短編小説が原作)だもの、もう、その通り。オペラ座の舞台から始まる、この絢爛たる恋の絵巻は、後期のヴィスコンティの耽美趣味が既に顔をだしながらも、やはりネオ・レオリズモで鍛えた直截な描写力が活きていて、全くヴァイタルなメロドラマになっている。
     1866年、オーストリア軍占領下のヴェネツィアで観劇中の軍の将校と抗戦運動の指導者の侯爵との間に決闘騒ぎが起り、それを諌めに入った伯爵夫人は、従弟である侯爵を流刑にされながらも、その美貌の将校に狂おしく恋をする。再び戦争が勃発し、密入国した侯爵は従姉のもとを訪ね軍資金の保管を依頼するが、夫人はその金を、将校に軍籍離脱の賄賂のためにと渡してしまう。祖国は敗れ、ヴェロナにいる彼の元に馬車を急がせた夫人の見たものは……。
     薄汚れた姿で恋人を探して兵舎を訪ね回る夫人=A・ヴァリの激情は、トリュフォーの「アデルの恋の物語」のI・アジャーニの比ではない。G・R・アルドと彼の死で途中交代したR・クラスカーのキャメラのゴージャスさ、全篇に響き渡るブルックナーの第七番。これぞイタリア映画というボリュームで観る者を圧倒する、ヴィスコンティの最高傑作。(映画データベース – allcinema より)

     

  • 映画『ベリッシマ』 戦後のイタリアの庶民を描いた初期の作品

    映画『ベリッシマ』 戦後のイタリアの庶民を描いた初期の作品

    映画『ベリッシマ』 BELLISSIMA

    BELLISSIMA

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    ヴィスコンティが描くイタリアの庶民

    ヴィスコンティの長編3作品目、デビューから実に9年目の作品でもある(それだけ寡作と言うこと)。
    ヴィスコンティ作品の中での位置付けは、もっともイタリア映画らしい作品と言うこと。
    1951年当時の現代劇である。
    しかも、しっかりロケを中心として作られているので、そこにあるのはイタリアの風情である。
    ヴィスコンティはこの作品で、今後の自分の進む道と共に、イタリア映画の進むべき道を提示している作品とも言える。
    それは映画は俳優で有ること、物語を語る上でそのキャラクターの個性と俳優の個性が一致する事、それを配役と演技から引き出すことによって一致させることが、重要で有ることを証明して見せた。
    この頃、イタリアのネオ・リアリズムの方向が、素人を俳優として起用する事が一つの約束事で有り特徴でも有ったが、それがいつの間にか映画の表現として行き詰まりを見せた事へのヴィスコンティなりの回答のようにも見える。

    この作品の完成には、ヴィスコンティと2人の人間の出会いが有った。
    一人は、脚本家のスーゾ・チェッキ・ダミーコ。
    彼女は、その後のヴィスコンティの主要な作品(『ベリッシマ』以後、『華やかな魔女たち』、『地獄に堕ちた勇者ども』、『ベニスに死す』以外の全作品に参加する)の脚本を担当しており、イタリア映画最高の脚本家の一人とされた。
    そしてもう一人は、主演を演じたアンナ・マニャーニである。
    彼女はヴィスコンティのデビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で、ヴィスコンティが主演にしようとしていたが、妊娠中のため 諦めたという経緯が有る。
    ヴィスコンティは、ダミーコの脚本を手に、マニャーニからこの母親像を見事に引き出している。

    BELLISSIMA

    物語は自体は、あるイタリア映画の子役のオーディションに夢を抱く母親と娘、そして家族と映画に群がる人々を描いている。
    先にも書いたが、子役(素人)を使うことをストーリーの中で皮肉っている一面も有る。
    また、同時に、映画が持つお金(資金)に群がり、人を騙す人々も描いている、映画の内幕ものである。

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    ヴィスコンティの映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『ベリッシマ』も含むイタリア映画10作品

    しかしやはり、この映画のテーマは、アンナ・マニャーニの母親像で有り、イタリアの人々の気質なのである。
    ここでイタリアの母親像を、ある意味素直で騙されやすく傷つきやすい女性、それでいながら母親としての強さ、家族への愛情を持った女性として見事に描ききっている。
    ヴィスコンティの作品には一貫して、主人公に偏りすぎず寄りすぎず、主人公に対しても冷徹な視線を投げかけている。
    それでいながら、主人公が映画の中心に浮かび上がってくるのだから、ヴィスコンティの演出に、今更ながら感心してしまう。

    イタリアの庶民の生活がリアルに描かれている。
    しかし、それでいてフェリーニやデ・シーカ、ロッセリーニとは“色”が明らかに違う。
    ヴィスコンティ自身は、どちらかというと庶民派とは違うが、デビュー作『郵便配達は二度ヘルを鳴らす』、長編第二作『揺れる大地』とこの 作品、リアルにそして不要なものを削ぎ取っていくことで、明らかにイタリア庶民を描ききっているのである。

    アンナ・マニャーニの演技を観るだけでも、この作品を観る価値は有る、そしてイタリアの香りを感じる事が出来る作品である。

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    映画『ベリッシマ』のデータ

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    BELLISSIMA 116分 1951年 イタリア

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■サルヴォ・ダンジェロ
    原案■チェーザレ・ザヴァッティーニ
    脚本■スーゾ・チェッキ・ダミーコ/フランチェスコ・ロージ/ルキノ・ヴィスコンティ
    撮影■ピエロ・ポルタルーピ/ポール・ロナルド
    音楽■フランコ・マンニーノ(ガエターノ・ドニゼッティの『愛の妙薬』による)
    指揮■フランコ・フェルラーラ
    演奏■オペラ座交響曲管弦楽団/RAI・TV合唱隊・管弦楽団
    美術■ジャンニ・ポリドーリ
    衣装■ピエロ・トージ
    編集■マリオ・セランドレイ
    助監督■フランチェスコ・ロージ/フランコ・ゼッフィレッリ
    製作会社■ベリッシマ・フィルム
    備考■白黒
    日本公開■1981年
    出演■アンナ・マニャーニ/ヴァルテル・キアーリ/ティーナ・アピチェッラ/ガストーネ・レンツェッリ/テクラ・スカラーノ/ローラ・ブラッチーニ/アルトゥーロ・ブラガリア/リンダ・シーニ/アレッサンドロ・ブラゼッティ/マリオ・キアーリ

    【解説】
     娘をベリッシマ(美少女)コンテストに入賞させ、映画スターに育てようと躍起になるマニャーニのステージママぶりが凄まじくも涙ぐましい、初期のヴィスコンティの人情喜劇。ネオレアリスモの精神に則って、力強く戦後まだないローマの庶民生活を描いて、実にみずみずしい作品でもあった。フランコ・ゼフィレッリとフランチェスコ・ロージ(共同脚本も)が助監督についている。(映画データベース – allcinema より)

  • 映画『揺れる大地 (海の挿話)』 ネオレアリズモの代表作

    映画『揺れる大地 (海の挿話)』 ネオレアリズモの代表作

    映画『揺れる大地 (海の挿話)』LA TERRA TREMA (EPISODIO DEL MARE)

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    2017年1月上映 デジタル2Kリマスター版について

    今回上映されたものは、2016年3月に修復が完成したリマスター版、尺に関しては今回は160分となっている。
    過去の今作品においては165分の記載があったり、紀伊國屋書店から出ているDVDでは158分となっているので、イタリアの古い映画に関しては多数のバージョンが存在すると思ったほうが良い。

    DVDと比較してみてもかなり綺麗にリマスター化されている、紀伊國屋書店のDVDに関しても元のフィルムに良いものを使用しているが、DVDにあった白い点がなくなっているのと、画面の端の歪みが消えていた。

    『無防備都市』『戦火のかなた』『自転車泥棒』などに並ぶ、ネオレアリズモの傑作、27年ぶり(?)の正式上映なので、この機会に映画館で是非見てもらいたい作品。

    -イタリア・ネオレアリズモの軌跡- 公式サイトはこちら

    『若者のすべて デジタル完全修復版』
    『郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル修復版』 2017年1月7日~
    『揺れる大地 デジタル修復版』 2017年1月21日~

    2016年12月24日(土)より新宿武蔵野館ほか全国順次公開

    ヴィスコンティ初期のネオレアリズモの傑作

    第二次世界大戦後イタリアの苦難の状態を、貴族出身のヴィスコンティが映像化したことに興味が有る。
    また、この作品では、プロの俳優を一切使わずにロケ地アチ・トレッツァの人々を起用している点も大きな意味が有る。
    ヴィスコンティがこの作品を撮影した時は既に40歳代に入っている。
    デビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』に続く長編第2作目。

    この作品を観ていると、白黒映像にも関わらず、海の碧さが感じられ、しかもそれが非常に塩の香りと魚臭さが感じられる。
    後のヴィスコンティ作品に観られるような華麗な映像や流麗な音楽は存在しない。
    ここにあるのは、リアルな映像と冷たいまでのナレーションだけと言っても過言ではない。
    話は至極単純なもので、仲買人に搾取される漁師達の一人が自立して事業を起こすが、それも挫折していく姿を描いている。
    しかし、この映画に映し出されるのは漁師達の本当の貧しさ、それは私が想像するより遙かに苦しいもの。
    そこに住む人々は、その事自体に何の疑問を持たず、慣習を重んじ、それを破る者を除け者にしようとする。
    ここに浮き彫りにされているのは、労働者<プロレタリア>と搾取者<ブルジョア>の関係である。
    搾取する人々は、自分達が居てはじめて、労働をするための秩序が存在していると心から信じている。
    労働者は、そう言った彼らと共存することによってのみ存在し得ると考えている。
    一人の理想に燃える若者アントニオも、結局、一人(一家族)の力では何もできない...無力であることを知るのみだっ た。
    冷徹なまでのナレーションがラストに語る...何が足りなかったか?それは“団結”だと。
    一人の無力さに涙を流すこの若者、本当の貧しさや、疎外感が彼に涙を流させる。
    そして、屈辱のうちに、また、元の虐げられる労働者に戻っていく。

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    実際の漁師を俳優に起用することで、その背景となるものまでが、全てリアルに目の前に提示される。
    日々の暮らしの苦しさ、そして裕福になった事への妬み、そして家を失い、家族が崩壊していく中で誇りも捨てて最低の暮らしの中に戻っていく姿。
    この深い悲しみを正面から冷徹に捉えることで、観る者に悲しみをかき立てる。
    そして、それが次への反動となる。
    これだけ人々の心情を映し出しながら突き放したところがある、この映像の凄さ!それだけに、悲しいのである。

    ヴィスコンティは、第二次世界大戦を通してファシズムに共産党の立場として対峙した。
    また、この作品の資金を提供したのも共産党であった。
    ヴィスコンティは、この頃は未だ共産主義の理念に燃えていた時期と思える節がある。
    そして裕福なイタリアの北部(ヴィスコンティの出身も北部ミラノ)に対して、南部は貧しい事も有る。
    彼は自分の貴族出身という立場を脱却しようと、この作品の中で、真の貧しさとその苦しみとその原因を描いてみせた。
    そして、貧しさを脱却するには、人々の“団結”が必要であると訴えかける。

    la_terra_trema

    この作品は、彼のこれまでの半生の集大成かもしれない。
    いや彼の半生がもたらした、次へのステップへの理想への道程と言うべきかもしれない。
    ヴィスコンティ自身も、この作品の後、共産主義の理念が、スターリン主義と共に地に堕ちる事によって挫折を味わう。
    そこには人間社会の中にうごめく伝統や習慣、慣習と言うものが欲望に支えられ、理想というものの前に立ちはだかる。
    彼の作品は、この作品の後、急激に人間の欲望が生み出す破滅と言うものを描き始める...。
    イタリアのネオレアリズモの枠を超えて、真実を描きながらプロパカンダとしてのメッセージ性を持った作品でも有る。

     

    映画『揺れる大地 (海の挿話)』のデータ

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    LA TERRA TREMA (EPISODIO DEL MARE) 165分 1948年 イタリア

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    助監督■フランチェスコ・ロージ/フランコ・ゼフィレッリ
    製作■サンヴォ・ダンジェロ
    原案■ルキノ・ヴィスコンティ(ジョヴァンニ・ヴェルガの『マラヴォリア家の人々』による)
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ
    ナレーター■アントニオ・ピエトランジェリ
    ナレーション台本■マリオ・ピーズ
    撮影■G・R・アルド
    音楽選曲■ルキノ・ヴィスコンティ/ウィリ・フェルレーロ
    編集■マリオ・セランドレイ
    製作会社■ウニヴェルサリア
    備考■白黒
    日本公開■日本未公開
    1990年1月19日
    2017年1月21日日本公開時:160分

    出演■アントニオ・アルチディアコノ/ジュゼッペ・アルチディアコノ/アントニーノ・ミカーレ ※アチ・トレッツアの漁師と住民が演じた。

    ヴェネチア国際映画祭 1948年
    国際賞 ルキノ・ヴィスコンティ

    【解説】
     ヴィスコンティ版「怒りの葡萄」。ネオ・レアリズモ仕様・漁師篇。なんて書くとやたら軽薄な感じだが、事実その通りの内容で、ここで若き巨匠は、ヴィットリオ・デ・シーカ監督に倣ってプロの俳優を一切使わず、シチリア島アーチ=トレッツアの漁師を起用し、作品の現実味を増させることに成功している。網元の搾取に苦しむ漁師たちに組合結成を呼びかける青年アントニオは、網元と結託する警察に捕まる。釈放後、非協力的な村民をしり目に独力で漁に出、これを事業として軌道に乗せるが、ある日、大時化に襲われ、全てを失う。素朴な島の民俗が盛り込まれ、権力と自然に拮坑する労働者の有り様と、一人の若者の闘いと挫折を、力強く描く、ヴィスコンティ初期の意義深い名作。(映画データベース – allcinema より)

     元々、監督のヴィスコンティは、漁民たちの状態、農地問題、鉱山の失業というシチリア経済の三つの問題を三部作として描こうとした、この作品はその『海の挿話』の部分。
    残念ながら、残りの2話は資金源でも有った共産党から資金が調達できず、製作することが出来なかった。

  • 映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 ヴィスコンティの処女作

    映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 ヴィスコンティの処女作

    映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 OSSESSIONE

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    2017年1月上映 2Kデジタル修正版について

    今回上映されたものは、最近発見されたフィルムと現存するフィルムの中で状態の良いものを2Kデジタル化したものを上映。
    残念ながら制作当初に有った140分版ではフィルムの状態が良いものがなく、今回は126分版での公開になったとのこと。

    久々に改めて見ると、現代のドラマ(映画やテレビなど)の愛憎劇の要素が全て含まれているような物語構成が面白かった、因果応報あり、愛情のすれ違いからの憎しみへ。
    一方では、ネオレアリズモとして時代性=イタリアの戦後の貧困も描かれている。

    デジタル修復された映像に関しては、確かに大部分が綺麗に修復されているが、126分版でも全体の映像が汚い部分が散見されるのは残念、戦後のイタリア映画のフィルムの保管状態の悪さは、何となく伝え聞いているがこればかりはデジタル処理でもどうにもならない部分なのか、残念。
    それでも、久々のスクリーンでの鑑賞の機会なので、現状で是非!

    -イタリア・ネオレアリズモの軌跡- 公式サイトはこちら

    『若者のすべて デジタル完全修復版』
    『郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル修復版』 2017年1月7日~
    『揺れる大地 デジタル修復版』 2017年1月21日~

    2016年12月24日(土)より新宿武蔵野館ほか全国順次公開

    ヴィコンティの映画監督デビュー作で完璧な作品

    ヴィスコンティの映画監督デビュー作である。
    それでいて、この完璧さは何だろう!この作品を機に、イタリア映画はリアリズムの道を歩む。
    ヴィスコンティは、原作の持つ犯罪小説と言う趣よりも、男女の欲望を全面に描いている。
    ここにあるのは、その後のヴィスコンティ作品にも現れる、人間の欲望とその行き着く先である。
    妖艶な人妻の誘いに乗り、夫殺しをする男。
    しかしそこには金銭的な二次的な欲望ではなく、愛欲という欲望にどっぷり浸かった男女が、自分たちの生のために、その手段に行き着く姿を美しく、醜く描ききる。
    この映画には途中、男を浄化してくれる踊り子の女性が現れるが、結局、男にとってそれも欲望の対象でしか終わらない。

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    ヴィスコンティの目は、常に人間の真実、その奥底に有る欲望を描写する事に焦点が合っている。
    二人が愛を深めれば深めるほど、その欲望の罠にはまっていく。
    それが良いとか、悪いとか、と言う倫理観ではなく、そこにはそれしか存在していかない。
    愛した女性がたまたま、夫のいる女性であったに過ぎないのだ。
    それは定まった仕事を持てない男の貧しさが生む悲劇とも言えるし、また安定した生活を求めたために結婚を選んだ女の貧しさの悲劇とも言える。
    そう、金銭面の貧しさが、心の貧しさとも結びついている。

    マッシモ・ジロッティ(主人公ジーノ役)の鍛えられた筋肉質の身体と、細く美しいクララ・カラマイ(主人公で人妻ジョヴァンナ役)の身体。
    この二つの肉体を選ぶところから、ヴィスコンティの演出は始まっている。
    そう、お互いを誘惑する二つの要素を見事に表している。
    それは力強さと優美さ。
    この世の尊いものが、互いに共鳴し有ったときに、欲望が渦巻き、悲劇への道をたどる。

    この映画では、白黒の陰影とラストの立ちこめる霧の描写が、美しいまでに焼き付く。
    ヴィスコンティは、デビュー作から既に完成しているのである。

     

    映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 のデータ

    郵便配達は二度ベルを鳴らす DVD — Amazonで見る

    製作年度:1942 年
    製作国:伊
    上映時間:143分(140分とも)

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■リベーロ・ソラローリ
    原作■ジェームズ・M・ケイン
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/マリオ・アリカータ/ジュゼッペ・デ・サンティス/ジャンニ・プッチーニ
    撮影■アルド・トンティ/ドメニコ・スカラ
    音楽■ジュゼッペ・ロザーティ
    指揮■フェルナンド・プレヴィターリ
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■ジーノ・フランツィ
    衣装■マリア・デ・マッティス
    助監督■ジュゼッペ・デ・サンティス/アントニオ・ピエトランジェリ
    製作会社■ICIローマ
    備考■白黒
    日本初公開■1979年
    1979年5月26日日本公開時:133分
    2017年1月7日日本公開時:126分

    出演■マッシモ・ジロッティ/クララ・カラマイ/ジュアン・デ・ランダ/ディーア・クリスティアーニ/エリオ・マルクッツォ/ヴィットリオ・ドゥーゼ/ミケーレ・リッカルディーニ

    【解説】
     戦中の、しかもイタリアでのジェームズ・M・ケインのインモラルな犯罪小説の映画化は、より濃密な男女の欲望の彷徨を描いている。
    ネオレアリスモの先駆と言うよりも、その後のアントニオーニやベルトリッチの到来を予感させるような、ヴィスコンティの驚くべき処女作である。
    舞台はカリフォルニアから北イタリアのポー河沿いということになり、登場人物の名もそれぞれイタリア風に改められているが、物語の骨子は原作や後のハリウッドでの映画化作品とも変わらない。
    ただ、もっとむせ返るような官能に包まれて、不倫カップルの、夫殺しのサスペンスより、ただそうせねば愛を貫けない息詰まる情愛を丹念につづっている。
    陰影の強い黒白画面に呑まれそうだ。(映画データベース – allcinema より)

    製作から37年を経て日本で初公開された、ヴィスコンティの処女作。
    映画の原題は『妄執』 。
    ジェームズ・M・ケインのこの原作は、 本作品を含めて4回の映画をされている。
    ’39年ピエール・シュナール監督でフェルナン・グラペ&コリ ンヌ・リュシエールの仏作品、
    米で’46年にテイ・ガーネット監督がジ ョン・ガーフィールド&ラナ・ターナー、
    ’81年にはボブ・ラファエル ソン監督がジャック・ニコルソン&ジェシカ・ラングで。

  • ルキノ・ヴィスコンティ -作品と演出-

    ルキノ・ヴィスコンティ -作品と演出-

    ルキノ・ヴィスコンティ作品総評

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    私の好きな作品を挙げるとしたら、やはり最後の5作品。
    特に『ルートヴィヒ 神々の黄昏』と『家族の肖像』に関しては、文句の付けようが無い。
    世間では『ベニスに死す』の評価が一番高いと言われていて、私も異存はない。
    滅びの美学とそのディテイルの重要性からすると、様式美の有る『ルートヴィヒ 神々の黄昏』と『家族の肖像』を選びたい。
    では、この2作品では、どちらが好きなのか?これは難しい問題。
    完成度の点では、ヴィスコンティ作品中一番なのが『家族の肖像』であることは間違いない。
    但し、この作品には、どうしても部屋の中のみで撮影された事と、その完成度故に私は閉塞感を感じてしまう。
    その点、冗長な点も在るものの、作品の中に雄大さやロマンも秘めた『ルートヴィヒ 神々の黄昏』の方が好きとも言える。

    ヴィスコンティの作品のどれか?選ぶ事自体、愚かしいことなのかも...
    最近では『ベニスに死す』に対して再評価しているけど。

    彼の作品は『山猫』を境に、2つの時代に分かれる。
    デビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』から『若者のすべて』(『ボッカチオ』は、オムニバスのため、この対象にはならないと思う)までは、ネオ・リアリズムの旗手としてリアリズムを追求した映像に賛美が集められた。
    確かに『若者のすべて』のロッコは印象的であり、そこで起きることはそれまでの劇画的な娯楽としての映画とは、一線を画した作品となっていた。
    それは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、『揺れる大地』から一貫した作風とも言えた。
    それが『山猫』を境にして、リアリズムにメロドラマ的な要素がふんだんに盛り込まれることになる。

    当時のイタリアや世界の映画評論家の間では、その変貌に戸惑い、ヴィスコンティの映画作家としての末期に来ていることを口を揃えて言っていた。
    当然、私自身、その当時のことは知らないが。

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    私が、ヴィスコンティに深い畏敬と尊敬の念を抱いたのは、やはり後期の作品を見てからである。逆に後期の作品を観て、そのルーツの前期の作品を観たというのが正解だろう。

    果たして、ヴィスコンティの作品は、難解である・・・具体的に、何が面白いのか?と、聞かれても応えることは難しいと今でも思う。
    最初に観たときの印象は、非常に重苦しく難解なのだが、なぜか心の中に残るものが有り、頭の中でストーリーを再度、トレースしてしまう・・・そんな感じだった。
    何が、そうさせるのか?ヴィスコンティ本人自らも、言うように・・・「滅び行くもの達を描く方が、楽しくしかも難しい・・・だから、敢えて描く対象にしているのだと・・・」
    ある人は、ヴィスコンティの作品の中に“腐敗”を観ている・・・私は何を観ているか?、そう、そこに有るものは、人間の“欲望”だと思っている。
    これは『家族の肖像』を観ている時に強く感じたことだった。
    確かに、ヴィスコンティの作品の中には、自らの出生(と言うか地位)から来る、旧時代の滅びの美学というものも色濃く感じられる。
    また、その芸術性として背景に有るものが主題を飲み込む・・・とも言う。
    例えば『家族の肖像』の部屋自体が物語の中心であり、ディテイルが俳優達を超越して自己表現しているとも言えよう。
    もちろん『ルートヴィヒ 神々の黄昏』の城の内装も同様に・・・
    しかし、それは、あくまで映画の一部。
    “腐敗”と“欲望”は、同義語かもしれない・・・。それは、“若くありたい・・・”、“今の栄華を継続したい・・・”と思う気持ちと、新しい欲求とのぶつかり合い・・・その中で古いものが切り捨てられていく。
    ヴィスコンティの作品の中では、常にこれが描かれている。
    ディテイルを細部に至るまで、丹念に再現される・・・そこには、前期の作品以上に色濃く出ている。ではメロドラマ的要素とは・・・それは単なる表現手法の一つでしかない!または、ヴィスコンティの内なる’20年代への回帰が、そう見せるのかもしれない。
    『地獄に墜ちた勇者ども』でのナチスも人間の内なる欲望の一部であり『ルートヴィヒ 神々の黄昏』での美しい城達やワグナーの音楽も欲望がもたらした、怪物なのである。
    もちろん『イノセント』の男の欲望もしかり『家族の肖像』の家族の団欒もしかりである。

    ヴィスコンティの作品を観ると言うことは、自分の内なる欲望をスクリーン上で見せ付けられ、しかもそれが破滅へと向かっている様を魅せつけられるのである。
    ヴィスコンティのリアリティ、それはスクリーン上に見事に総てを出し尽くし、その中で内なるものも吐き出してしまう(フェリーニは、架空の世界にリアリティを再現させているところが、ヴィスコンティと大きく違う、お互いに犬猿の仲でもある)。visconti06

    ヴィスコンティの中には、ファシズムとの闘争、コミュニティへの傾倒・・・そして挫折。
    そこに見たものは、人間の内なるものだったのでは・・・
    芸術も、思想も、人間の内なるものなのである。

    彼の長い生涯のうち、残した作品は、わずか20本足らず、しかし晩年までその情熱と才能が、尽きることはなかった。

    ルキノ・ヴィスコンティ演出術

    優秀な監督は、常に俳優を際立たせる術を持っている・・・ヴィスコンティもその一人。
    彼の作品に出た俳優は、常に最高の演技を魅せてくれる。
    他の作品とは別人のようでもある。
    彼の映画作りの最も重要な要素の一つとして、撮影前のリハーサルが有る。
    主役クラスの俳優を集めて行われるが、この期間が他の監督とは比べようもなく長い時間を掛けて行われる。
    ここで彼らの演技の殆どが決まっていると言っても過言ではない。
    撮影に入る時には、既に俳優が役を作り上げているのである。

    ヴィスコンティの一番のお気に入りは、やはりアラン・ドロンと言えよう。
    彼は映画『太陽にいっぱい』で、素晴らしい演技を魅せてくれた。
    しかし『若者のすべて』や『山猫』では、それ以上のものが有った。
    『若者のすべて』のロッコは、ドロンにとって最高の役柄であり演技であったと思える。
    またヴィスコンティは『異邦人』や『イノセント』に於いても、アラン・ドロンを主演にしたかったようだが、これはドロンが人気スターになっていたことも有り実現しなかった。

    初期の頃、ヴィスコンティが好んで使った俳優にマルチェロ・マストロヤンニがいる。
    彼はセミ・プロの舞台に立っていた頃に、ヴィスコンティに認められてローマの舞台に立った経緯が有る。
    ヴィスコンティの作品では『白夜』、『異邦人』に主演している。
    が、彼にとってはヴィスコンティの作品では、今一つの出来であった。
    マストロヤンニ自体は、二枚目からコメディの三枚目までこなす、幅広い演技の持ち主であったが、彼本来の持つ素養が“明るすぎる”ため、ヴィスコンティの映画のディテイルと相反してしまっていたのだろう。(一方で、フェリーニ作品では光り輝いていた)
    『異邦人』の後に「プッチーニ伝」に出演する話も有ったが、こちらの作品は企画が流れて実現することはなかった。visconti07

    ヴィスコンティは、彼の映画を見事に表現する俳優に出会う。
    その俳優の名前はヘルムート・バーガー。
    彼は、ヴィスコンティのババリア三部作のうち『地獄に堕ちた勇者ども』、『ルートヴィヒ 神々の黄昏』の二作品に主演し、続いて『家族の肖像』にも重要な役として出ている。
    彼は、その美しさ以上に妖艶という言葉、狂気と薄気味悪さを醸し出している。
    バーガーの資質もヴィスコンティに引き出され、上記の作品の中に息づいた。
    それ以外の彼は、過去の栄光にしがみつくだけと言えよう。

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    『家族の肖像』では、アメリカ人で既にハリウッドでも成功を収めたバート・ランカスターを主演に据えた。
    これは彼の俳優としての能力(既に『山猫』でも実証済み)を認めた、ヴィスコンティの要望でも有る。
    この作品では、主役の教授にヨーロッパからアメリカに渡った、学者や芸術家の特徴を出したかった意図が有るように思われる。
    その時にランカスターの知的な雰囲気と、そしてアメリカとヨーロッパの雰囲気を併せ持つ彼を必要としたのだろう。

    ヴィスコンティの映画の中の女性像は、彼の母親の姿が色濃く反映される。
    それは強く自立した、そして美しい女性像でも有る。
    当然、貴婦人としての資質が求められる。
    『夏の嵐』で、期待以上の演技を魅せたアリーダ・ヴァッリや『地獄に堕ちた勇者ども』のイングリット・チューリン、『ベニスに死す』と『家族の肖像』のシルヴァーナ・マンガーノらは、ヴィスコンティの母、ドンナ・カルラを思わせ、そこには威厳に満ちた美しさを感じさせた。
    それにしてもヴィスコンティの配役は妙である。
    単に演じる配役に相応しいキャラクターを世界中から集めてくる。
    キャリアや国籍は、そこには存在しない・・・。
    シルヴァーナ・マンガーノにしても映画『にがい米』での野性的グラマー女優として世界を一世風靡した。
    ドイツ・ポルノのヒロインだったラウラ・アントネッリを貴婦人に仕立てた。
    マリア・シェルやロミー・シュナイダーにしても、既に地位を持っていたにも関わらず、それまでの作品の役柄とは全く異なった役で一段と輝いてみせた。
    ヴィスコンティの描く女性の中で、貴婦人と対象をなす庶民の女性も見事に描ききっている。
    代表的な例が『山猫』、『熊座の淡き星影』のクラウディア・カルディナーレである。
    未だ大女優と呼べない彼女をこの2作品で見事に開花させてみせた。
    元々彼女に有る、庶民的な親しみ易さの他に、重みの有るそして獣的な美しさを引き出して見せてくれた。

    ヴィスコンティは『夏の嵐』では、イングリット・バーグマンとマーロン・ブランドで行く予定で有った。
    バーグマンに関しては、夫のロッセリーニの反対により、ブランドは既にハリウッドでの地位が有り映画会社などの反対により実現しなかった。
    ただバーグマンの代役のヴァッリの熱演のお陰で救われた部分も有るが・・・。
    ヴィスコンティは言う「私は俳優の個性をそのまま生かしながら登場人物を描き、掘り下げて行く」と・・・。

    ドイツ三部作「地獄へ堕ちた勇者ども」から
    遺作「イノセント」まで

    新宿シネマ・カリテ(2016年7月改装中の新宿武蔵野館)にて、ヴィスコンティ特集が開催された(1999年4月)。
    上映されたのは『ルートヴィヒ(復元完全版)』、『イノセント』、『ベニスに死す』、『家族の肖像』、『地獄に堕ちた勇者ども』 の5作品(上映順)で有る。
    この作品は、ヴィスコンティの最後の5作品で、製作順に並べると『地獄に堕ちた勇者ども』→『ベニスに死す』→『ルートヴィヒ(復元完全版)』→『家族の肖像』→『イノセント』となる。
    『地獄に堕ちた勇者ども』から『ルートヴィヒ(復元完全版)』の3作品はゲルマニア三部作(もしくはドイツ三部作)と呼ばれるもので、『イノセント』は言うまでもなくヴィスコンティ最後の作品、遺作である。

    ヴィスコンティは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(’42)で映画監督としてデビューするが、当時の評価としては、イタリアのネオ・リアリズモの旗手として注目されている。
    その次の作品『揺れる大地』で決定的となる。
    が、『夏の嵐』では、オペラの表現手段を大胆に映画に取り入れること、そしてイタリア統一戦争を背景とした政治的意図を挿入すると言った、後の作品への移行が見られる。

    ヴィスコンティの作品には、ある種の頽廃が常に描かれている。
    その頽廃と政治的意図の結合が初めてなされたのが、ゲルマニア三部作の第一作『地獄に堕ちた勇者ども』で有る。
    製作年度の時系列で見ると『地獄に堕ちた勇者ども』から『家族の肖像』までの作品は、明らかに政治的なものが強く作品の中に見ることが出来る。
    当然、検閲に依って変更を余儀なくされた『夏の嵐』やイタリア統一戦争を描いた『山猫』に於いても政治的な描き込みもされているが、それよりもむしろ、ある階級の世代的な衰退を描いてるに過ぎない。
    これらの作品は、後のヴィスコンティ作品の序章に過ぎないとも言える。visconti08

    上記に書いた(『地獄に堕ちた勇者ども』から『家族の肖像』)4作品は、以前観た時の印象よりも政治的な意味合いを作品の中に見ることが出来た。
    これは以前観たときよりも、観る側(私)の中で政治への関心や知識が増えた事によるものと思われる。
    ヴィスコンティは、言うまでもなくイタリアの貴族階級出身の人物である。
    後にファシストに対するレジスタンス活動などから“赤い貴族”と呼ばれることになる。
    しかしイタリア貴族と言いながらも彼の出身は北部であり、彼の家系の歴史の大半はオーストリア帝国に支配されていた時代のものである。
    その事は、彼にドイツへの関心を駆り立たせる要因であることは間違いないだろう。

    『地獄に堕ちた勇者ども』は1969年の作品である。
    ヴィスコンティは、もっと早く作られるべき作品と言っている。
    何故、この作品がこれ程までに遅く出来上がったか...
    これは個人的な推測でしかないが、ゲルマニア三部作の根底にあるのは、ゲーテから始まるロマン主義、それはトーマス・マン、ニーチェ、ワグナーへと繋がるロマン主義と民族主義の統合、その結実した姿のナチズム、この経緯をヴィスコンティの中で、確固たる思想体系にする事に時間を要したのではないだろうか?
    『地獄に堕ちた勇者ども』では、ナチズムそのものを描こうとしている。
    そのナチズムとは何か?『地獄に堕ちた勇者ども』では、これを見事に描いてみせた。visconti10


    『地獄に堕ちた勇者ども』
    から時代は遡って、『ベニスに死す』が、この後、製作される。
    ドイツの精神的な表現者だったトーマス・マンの小説の映画化である。
    作品そのもののテーマは“美”そのものである。
    しかし、そこにあるものは間違いなく“美”が持つ悪魔的なものを描き、それが第一次世界大戦前夜の時代性を内在させている。
    この事自体を映画そのものから読み取る事は、私や(ヨーロッパの専門的な知識を持たない)日本人には不可能かもしれないが...。
    『ベニスに死す』はトーマス・マンの小説であるが映画『ベニスに死す』は、トーマス・マン自身やマーラー、そしてワグナー等のロマン主義派の自在する人物を、戯画化して映画に投影させている。
    それはドイツの精神的な変遷を描いているとも言える。visconti09

    そして、更に時代は遡り『ルートヴィヒ(復元完全版)』が製作される。ルートヴィヒが社会に否定され、プロイセン(後のドイツ帝国)に吸収される事は、それまでのドイツ文化の崩壊を示す。
    そこに描かれる政治的な意味合いは、ある階級が時代から取り残され、崩壊していくこと以上に、ルートヴィヒが愛した文化的なものが、時代によって、もちろんそれはドイツと言う枠の中で否定されていく課程が描かれる。
    ルートヴィヒのバイエルン王国の首都はミュンヘンである。
    バイエルン王国の崩壊は、後に民族主義の温床となり、更に伝統的なロマン主義との結合が容易い地となり、ナチスの発祥の地となる。
    そのきっかけがルートヴィヒの死であり、バイエルン王国のドイツ帝国への統合であった。

    ヴィスコンティがゲルマニア三部作で退廃的とも言える、芸術とそれに溺れ行く人々を描いたのは、それ自体が時代性であったとも言える。
    ヴィスコンティが描く、美しい世界が魅力であれば有るほど、そしてそれに魅了されることは、悪魔との契約とも言える。
    ヴィスコンティは『ルートヴィヒ(復元完全版)』の撮影終了後、過労のため倒れる。
    性も根も尽き果てた、彼が映画と言う枠を超えて描きたかった世界を描ききった、その終焉を示すように...visconti11

    『家族の肖像』は、映画自体が製作された1974年に近い時代の事を描いているように思われる。
    この作品でも、政治的な意図が散りばめられる。
    共産主義とブルジョワ的資本主義で有る。
    主人公の教授は人間関係からの逃避、と同時に人間関係が生む、思想的な対立からの逃避がそこには見受けられる。
    ただヴィスコンティが、この作品で政治的意図をどこまで盛り込んだかは少し疑問が残る。
    ここでは以前のヴィスコンティ作品のような、人間の内面的な描写“欲望”と言うものを描いている。


    『イノセント』
    に於いては、ヴィスコンティの遺作であるこの作品で、今までの彼の作品以上に瑞々しく美しい作品となった。
    描かれているのは、嬰児殺しで有り“愛”と“独占欲”と言う“欲望”で有る。
    そこには政治的な意図は薄く、むしろ人間そのものを、美しい映像と甘美な音楽で描いている。
    ヴィスコンティ自身も死が近づき、政治的なものから解放され、もっと身近なものに固執したのではないだろうか?visconti12

    ヴィスコンティの作品を語るとき、ヴィスコンティ自身を含め、ホモセクシャル的な表現が随所に見ることが出来る。
    が、以前観たときよりも、その印象は確実に薄らいでいる。
    それは私の居る現代が、性的な事においてより解放されているからかもしれない。
    それは10年前と比べても進歩?している。
    個々の作品で見た場合、『地獄に堕ちた勇者ども』の突撃隊暗殺の“長いナイフの夜”事件(突撃隊の歌「われらは長きナイフを磨かん」からとった、1934年6月30日のヒトラーの親衛隊による突撃隊粛正の事件を言う)で、ヴィスコンティはその物語とは違うも話として、挿入しているような錯覚に陥らせる作りをしている。
    ここでは突撃隊のメンバーが男色に走り、そこを襲撃されて破滅していく。
    この男色の表現は、決してヴィスコンティの趣味だけで描かれたものではない。
    この時代に男色は肯定されていたものであり、美徳として容認されていたからだ。
    事実、突撃隊では男性の同性愛的要素によって団結の絆を強めていた。
    ナチズム運動の中にも、同性愛的要素が見受けられた。
    これはドイツの民族主義、ロマン主義の恥部であり、ヒトラーはそれを自ら取り除くことで、突撃隊を否定する口実とした。
    また『ベニスに死す』で、音楽家アッシェンバッハが美少年を追い回す事が、ホモセクシャル的ニュアンスを含むとしているが、これに於いても少年自体に対する性的欲求と言うよりも、“美”の象徴として描かれている、と私は解釈している。
    ただ娼婦のシーンの回想と重ね合わせる時、美の追求と堕落として、その先に存在するものが性的なもので有る、これも決して間違いではない。そう、この美少年こそが悪魔なのである。
    『ルートヴィヒ(復元完全版)』に於ける男色のシーンは、ルートヴィヒ自体が男色で有ることが、歴史的な事実として有る以上、作品の中には性的なもの以上のものを、ヴィスコンティは描こうとしている。
    『家族の肖像』においては、教授とコンラッドの関係において男色的な意図を読み取るのは、少し無理が有るように思われる。
    むしろ親子の愛情に近いものを感じる。
    『イノセント』に於いて、主人公が妻の不倫相手の裸を見つめるシーンを持って男色的な意図とするのも、同様に無理が有る。
    これは男女の関係に於ける性的能力を比較したいと言う、男性の屈折した心情の現れだろう。
    19世紀から20世紀初頭にかけて、同性愛はある種の美徳を持っていた(いや、それ以前からかも?いや今でも?)。
    芸術に於いて、文化に於いて、女性は男性を誘惑しその活動する能力を奪う存在で有る、乱暴だろうか?...そう言った考え方が有ったとしてもおかしくはないのではないか?

    イタリア映画界の巨匠と言えば、ヴィスコンティと並び称されるフェデリコ・フェリーニの存在が有る。
    もちろん、ビットリオ・デ・シーカやロベルト・ロッセリーニと言った存在も有るが...。
    フェリーニは市民の出で有り、そこに描かれる世界は市民の生活の場で有る。
    一方、ヴィスコンティのは貴族出身であり、そこに描かれるのは(初期の作品は別にして)有る一定階級の人々である。
    貴族的なもの、それは描かれている背景そのものより、描く際の視点がフェリーニやその他の監督達と違うのである。
    そこにはヴィスコンティ自身が貴族であることの奢りは見ることは出来ない。
    映画を観てヴィスコンティが貴族であることが判るのは、その調度品、大道具、小道具の使い方の手慣れた部分だけである。

    ヴィスコンティの最後の5作品の最大の特徴は、甘美であり、退廃的である。
    その両方が常に存在している。
    そこに有るものが政治的なものであったとしても、人間の内在するものであったとしても、ヴィスコンティの描く世界が、魅力的であればあるほど、そこには(悪魔的)堕落があると言える。

    改めて、映画館の大画面(当時のシネマ・カリテの画面は、実際それ程大きくないが)と大音響の中で、酔いしれてしまうのは、ヴィスコンティの世界の深さと広さに有る。

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