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  • 映画『イノセント』 ヴィスコンティ最後のエロティシズム

    映画『イノセント』 ヴィスコンティ最後のエロティシズム

    映画『イノセント』 L’INNOCENTE

    linnocente

    ルキノ・ヴィスコンティの生涯についてはこちらから

    ルキノ・ヴィスコンティ -作品と演出- はこちら

    ヴィスコンティの遺作でありながら、優美の映像が展開する

    ヴィスコンティの他の作品と同様、俳優陣の素晴らしさが光る。
    ヴィスコンティ以外の映画では平凡な役者に終始していても、彼の演出の元では光り輝くようだ。
    ヴィスコンティ最後の作品は、個人のレベルでその苦悩と挫折を描いて魅せた。
    前作の『家族の肖像』よりも『ルードヴィヒ/神々の黄昏』に近いテーマを描いている。
    テーマの深さ、それを掘り下げる一切の破綻のない演出の完璧さは、どの作品を見ても感心させられる。

    この作品では、理想的な男性像(あくまで男性から見てなのかもしれないが・・・)の夫が、不倫を繰り返す。
    それに耐えかねた妻が、自ら不倫の末、妊娠をする。
    他の男性の子供を産むことにより、夫の精神的な崩壊を招く。
    そこには男性の欲望とその悲劇的な結末が描き抜かれている。
    ラストのシーンは原作と違い、夫の自殺のシーンで終わる。
    この作品はこれまでのヴィスコンティの作品以上に、エロチシズムに富み、抽象的な映像が散りばめられている。
    その絢爛豪華さにはヴィスコンティの衰えを知らない創作意欲を感じずにはいられない。
    所詮、男性は女性・特に母親の前には屈服するしかないのか?

    linnocente

    ヴィスコンティの遺作であり、この作品のダビング中に亡くなった。
    一般的にこの作品が、これまでのヴィスコンティの作品に比べると力が落ちたと言う人も多くいるが、私は逆にこの作品を観てヴィスコンティは最後まで、情熱をもって完璧な作品を作り続けたと感じることが出来た。
    この作品は、これまでのヴィスコンティの作品からは少し趣が違っている。
    これまでの作品は、(特に彼の後半の作品群)同性愛的嗜好が作品の中に横たわっていること、ある時代の崩壊(王侯貴族であったり、財閥であったりする)を描いている。
    耽美的という点ではこの作品も含まれるが...

    改めてこの作品を観て、やはり、映像の美しさに惹かれる。
    これまでの作品以上に鮮やかな彩りを持っている。
    室内装飾や衣装と言った点においても、黒や赤、そして金色と言った色彩と、草木の緑と言った色を鮮やかに使いこなしている。
    このバランスと美しさも、この作品の見所と言えそう。

    そして、この作品はヴィスコンティの作品の中でも、現代的なテーマを取り上げている点で非常に分かり易いストーリーとも言える。
    男女の恋愛、日本で言うところの失楽園的な恋愛をディテイルにしている。
    そこの描かれているのは単純な不倫と言うものではなく、夫婦の内面であり、男女の愛の内面、そこに潜む狂気と男性に取っての人生観までを描いている。

    linnocente

    またヴィスコンティ作品には珍しくエロティックな表現も有り、その使い方が大胆で効果的であったし美しく艶めかしくもあった。
    この作品を観ると、ヴィスコンティは映画の中で主題そのものを描くと言うことよりも、自分の好きなテーマを表現するのに合った題材の脚本(や原作)から、実はそこに棲息する登場人物達の人間性(欲望であったりその地位であったり)を描くことのみに、その表現を用いているのでは?と考えさせられる。
    この作品では、不倫と嬰児殺しと言う点がテーマになるが、その裏には男性の恋愛に対する考え方と、(二人の)女性の考え方、そして恋愛と結婚というものに対する考え方を描いて見せている。
    愛人(ジェニファー・オニール)の自由奔放な生き方と、妻(ラウラ・アントネッリ)の貞淑な生き様、その中に描かれた女性の魔性...理想の男性像のプレイ・ボーイでありながら、結局、女性を理解することが出来なかった主人公(ジャンカルロ・ジャンニーニ)。
    全てを失った(と言っても女性からの愛だけだが)彼には存在する理由が無かった...

    それは、現代に於いても、日常的な恋愛の裏側に潜む人間関係や人の欲望で有り、自分の周りでも常時起こっている普遍的なものとも言える。
    この作品では非常に俳優の目の動きが印象的だった、特にジャンニーニの鋭い眼光は魅力的だった。

    linnocente

     

    映画『イノセント』のデータ

    映画『イノセント』(Blu−ray Disc) /ジャンカルロ・ジャンニーニ,ラウラ・アントネッリ,ジェニファー・オニール,ルキノ・ヴィスコンティ(監督)

    L’innocente 125分 1975年 イタリア

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■ジョヴァンニ・ベルトルッチ
    原作■ガブリエレ・ダヌンツィオ
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/エンリコ・メディオーリ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    撮影■パスカリーノ・デ・サンティス
    音楽■フランコ・マンニーノ/ショパン『ワルツ69・70・64』、『子守歌』/モーツァルト『ピアノ・ソナタK331』/リスト『エステ荘の噴水』/グルック『エウリディケを失って』
    編集■ルッジェーロ・マストロヤンニ
    美術■マリオ・ガルブリア
    衣装■ヴェラ・マルツォ/ピエロ・トージ
    助監督■アルビーノ・コッコ/ジョルジオ・トレーヴェ
    製作会社■リッツォリ・フィルム
    備考■テクニカラー、コスモヴィジョン
    日本公開■1979年
    出演■ジャンカルロ・ジャンニーニ/ラウラ・アントネッリ/ジェニファー・オニール/ディディエ・オードバン/リーナ・モレッリ/マッシモ・ジロッティ/マルク・ポレル/マリー・ジュポワ/カルロス・デ・カルヴァーロ/クロード・マン

    【解説】
     ダヌンツィオの原作を仰ぎ、ヴィスコンティが幼少期に映画的洗礼を授かった、イタリア・サイレント期のロマン主義的傾向の恋愛劇へのオマージュとしての、典雅にして不気味な貴族の愛憎物語。未亡人の愛人(美しすぎて怖いJ・オニール)にうつつを抜かし、盲目的な愛国主義に溺れる、嫉妬深い男(ジャンニーニのキャリアの頂点!)。失われゆく19世紀の栄華、そして新しい世紀への不安は彼を、その不実に悩み苦しみ抜いたL・アントネッリが密通し出来た赤児を殺す–という狂気へ駆り立てる。ラスト近い、その場面の恐ろしさ、純粋さ(開けた窓から雪が舞い込み、その冷気によって窓際に寝かせた幼子を殺そうというのである)……。巨匠入魂の、そして残念ながら最後の、自らの階級への痛切なる挽歌。(映画データベース – allcinema より)

    イタリアの耽美派作家ダヌンツィオの原作を基にしたヴィスコンティの遺作。
    愛人を持つ男が、妻が別の男の子供を産んだことで苦悩する。
    物語は、悲劇的結末に向かって進み、ヴィスコンティならではの優美な映像が展開する。
    ヴィスコンティは当初、アラン・ドロンとロミー・シュナイダーの出演を望んだ。
    当時、ドロンは5本の出演作品を抱え、シュナイダーは妊娠中だったことで実現しなかった。
    ヴィスコンティ自身の別の発言では、アラン・ドロンとシャーロット・ランプリングともなっている。

  • 映画『家族の肖像』 個室の中の完璧なドラマ

    映画『家族の肖像』 個室の中の完璧なドラマ

    映画『家族の肖像』 GRUPPO DI FAMIGLIA IN UN INTERNO

    gruppo-di-famiglia-in-un-interno

    2017年2月11日(祝・土)より、岩波ホールほか全国順次ロードショー

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    ルキノ・ヴィスコンティ -作品と演出- はこちら

    部屋に閉じこもる老人を描くことで、人間の本質を描いた作品

    私が観た映画の中の最高傑作の一つ。
    演出の素晴らしさ、それに応えた俳優陣も素晴らしい!
    ここで出てくるアイテムとして音楽・絵画が有るが、その使い方も、それに精通しているヴィスコンティならでは。
    この作品では孤独を好む老人の前に、ある日突然、家族というものが現れる。
    そこには欲望というものを隠さず露わにする人種達であった。
    老人の心の中での葛藤とそれを受け入れたものの、また裏切られる経過を部屋というディテイルの中で描ききっている。
    テーマの深さを物の見事に表現していること、一切の無駄を省きながらも語り残したところの無い完璧なストーリー。
    そこにはヨーロッパの芸術、映画の娯楽性までもが醸し出されている。
    時代性は無いものの、人間の普遍的な部分を追求した作品。

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    映画館で観終わってやはり疲れる、難解な映画である、と同時にヴィスコンティの作品の中でも最も完成された作品だと思う。
    それは他のヴィスコンティ作品は、受け取る側(観客)の感性と言うものに、かなりの部分を委ねているのに対して、この作品では明確にヴィスコンティが描こうとするものが映し出され考えることを要求しているようにも思える。
    その理由の一つに、家の中から出ないと言った閉ざされた空間の中で物語が進行していく事に有ると言っても良い、まるで舞台劇のように話は進んで行く。
    ただヴィスコンティは、舞台劇と映画の明確な違いを意識しており、常に映像の中に奥行きを持たしている。
    この辺の演出に関しては、今更どうこう言う必要は無いだろう、素晴らしいの一言である。
    テーマは世代間ギャップで有り、古い世代の一人の人間の孤独感である。
    ただ、このギャップや孤独感は、主人公の教授の性格に依存するものであり、ある特定の階級等に所属する人々の一般的な話では無い。
    またヴィスコンティの作品の素晴らしい点として、登場人物の奥行きの深さ。
    そう言う意味で教授が妻の事、母親の事を回想するシーンなどは重要な意味を持つ。

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    この作品は『地獄に堕ちた勇者ども』と同様に、非常に政治的・思想的な意味合いも込められていた。
    ファシズムとしての右派と、共産主義的な過激派が出てくる。
    そこにはヴィスコンティ自身も経験した共産主義的左派の挫折も明確に読みとれる。
    時代から逃避した老人と、現実の中に埋没している人々の悲劇...ただ、この老人が現実には存在しえない人なのだろうか?
    人間の心の中に潜む欲望、それは複数の人々が集えば必ず争いが起きる原因となる。
    それは人の集まりの最小単位である家族であったとしても(ここでは仮想的な、もしくは擬似的な家族では有るが)。
    ならば、それを避けて生きていきたいと願う事も有るのでは。
    確かに、この作品の教授は余りにも象徴的に描かれているが、実際の人々の中に潜む孤独、それを明確に捉えている。
    そうコンラッドやブルモンティ婦人の家族は、現実の世界の人々の象徴として描かれる。
    それは欲望に満ちた人々であり、片やブルジョワ的資産階級であり、片や革命的共産主義者である。
    どちらが良い悪いでは無く、そこには自己矛盾が存在しており、醜いものが潜んでいて、常に争いを起こす。
    それはお互いを愛す事でもそうで有り、仲間の間でもそうで有り、家族の間でもそうなので有る。
    そしてそこから逃避したい...と、考えるのはある意味、人間の弱さであり本質なのかもしれない。
    こうしてヴィスコンティは、この作品で人間の内面を見事に描いて見せた。
    また映画の造形の面からも、2つの側面を描いて見せた。
    教授の部屋は、時代錯誤的なバロック調の部屋であり、コンラッドの間借りした部屋は現代的な部屋に改装されている。
    コンラッドの部屋を見て、観客は初めてこの作品が現代の物語であることに気付かされる。

    gruppo-di-famiglia-in-un-interno

    イタリア人でありながら、一時期、アメリカに渡航した老教授をバート・ランカスターが好演。
    ヘルムート・バーガーの妖しさはここでも美しい。
    それ以上に素晴らしかったのは、派手な衣装を装いながらも、品の良さを持った上流階級の貴婦人を演じ、と同時に女性のエゴを丸出しにした演技をしたシルヴァーナ・マンガーノは秀逸である。
    登場人物を限ったことにより、一人一人の人物を深く描き、人間の本質と時代性を描いたヴィスコンティの本当の傑作である。

    映画『家族の肖像』のデータ

    映画『家族の肖像』 デジタル完全修復版【Blu-ray】 [ バート・ランカスター ]

    Conversation Piece(Gruppo di Famiglia in un Interno 121分 1974年 イタリア

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■ジョヴァンニ・ベルトルッチ
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/エンリコ・メディオーリ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    撮影■パスカリーノ・デ・サンティス
    音楽■フランコ・マンニーノ/モーツァルト『神よ、私の心を、K364』
    編集■ルッジェーロ・マストロヤンニ
    美術■マリオ・ガルブリア
    衣装■ヴェラ・マルツォ/ピエロ・トージ
    助監督■アルビーノ・コッコ
    製作会社■ルスコーニ・フィルム/ゴーモン・インターナショナル
    備考■テクニカラー、トッドAO
    日本公開■1978年
    出演■バート・ランカスター/シルヴァーナ・マンガーノ/ヘルムート・バーガー/クラウディア・マルサーニ/ステファノ・パトリッツィ/エルヴィラ・コルテーゼ/ロモロ・ヴァッリ/クラウディア・カルディナーレ/ドミニク・サンダ

    【解説】
     ローマ市内で静かに暮らす教授のもとに、奇妙な一群がやってきた。母娘とその情夫たちである。彼らは教授の屋敷の2階に住み着き、教授の平穏な生活はかき乱されてしまう。だが、母親の情夫コンラッドとの美術談義だけは、教授に不思議な安息を与えていた。そんなある日、コンラッドが過激派に襲われて負傷してしまう。やがて、その傷がきっかけとなり、コンラッドは彼らの前から姿を消すことになるが……。巨匠ヴィスコンティが、現代における家族の存在理由と定義を問い直す、静かだが力強い作品。B・ランカスターとヨーロッパ映画界を代表するスターの顔合わせも大きな魅力となっている。(映画データベース – allcinema より)

    題名の“家族の肖像”とは、18世紀イギリスで流行した家族の団欒を描いた一連の肖像画の事。
    ローマの広大な邸宅に住む老教授(バート・ランカスター)は、この“家族の肖像”のコレクションが趣味で、それらの絵画に囲まれて孤独に暮らしている。
    そこに、実業家夫人ビアンカ(シルヴァーナ・マンガーノ)が現れ、彼女の愛人コンラッド(ヘルムート・バーガー)の為に、強引に教授の住む邸宅の2階の部屋を借りたことから、教授の生活は一変する。
    孤独に暮らす教授に新しい“家族”が加わったのだ、だが教授はコンラッドを理解できないまま・・・。
    解体され変貌する家族の中の旧世代の孤独感を描いた、ヴィスコンティのレクイエム。

  • 映画『ルートヴィヒ』 バイセクシャルの不完全な美学

    映画『ルートヴィヒ』 バイセクシャルの不完全な美学

    映画『ルートヴィヒ/神々の黄昏』 LUDWIG

    ludwig

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    ヴィスコンティ作品の中で完璧ではないが最も好きな作品

    ヴィスコンティの傑作中の傑作。
    彼はこの作品に際して、老体に鞭を打ちドイツの寒い山林の中での撮影を敢行した。
    この事が彼を病に追いやった。
    それでも、この大作を完成させた執念は、もの凄いものを感じずにはいられない。

    この作品の内容と言うより、ここには総合芸術としての映画、全ての芸術・娯楽という要素を見事に融合させている。
    オペラなどのクラシック音楽はもちろん、映像的にもその室内装飾から衣装までも素晴らしく、ルードウィヒが建てたノイシュヴァンシュタイン城までもが、この映画を際ただせている。
    その構成する要素全てを完璧なまでに使いこなす。
    これだけの作品は、これ以降も生まれる可能性は少ない。

    狂王と呼ばれたルードウィヒ二世をヘルムート・バーガーが見事に演じている。
    その変わっていく様と共に、彼の置かれる環境も変わり、徐々にその耽美で倒錯的な世界が展開される。
    この作品でヴィスコンティは、芸術を愛する一人の国王が、国王という存在そのものが変わろうとした時代に、変化についていくことが出来ず、それに押しつぶされる人物像を描いている。
    こういった人物を描いた時に、ヴィスコンティの本領が発揮される。
    私がこの作品を楽しんだのは、ストーリーそのものや、その裏に有るヴィスコンティの表現したい事ではない。
    ヴィスコンティの作った世界観、それは上にも書いた音楽や映像、そして魅力有る登場人物。
    ルードウィヒやエリザベートと言った周りの人物自体も魅力的であるが、それを演じる俳優達の上手いこと・・・
    ヴィスコンティが見事にその個性を引き出し、映画の一部に取り込んでいる。
    それ全てが歪みが無く完璧に構成されていることに酔いしれることが出来る。
    そして見終わった後の心に残る強い感動を止めることは出来ない。
    感動と言っても、それは得体の知れないものであるが・・・。
    映画というもの存在が何か・・・この作品を観ていると、それすらを超越してしまっている。
    架空の世界にも関わらず、そこには完璧なまでのリアリズムと同時に余りに美しい世界が広がっている。

    ludwig

    テーマやストーリーの意図するものを追ってみたい。
    この作品のテーマは、(明らかにヴィスコンティの出生にまつわる)有る階級が、時代に取り残され崩壊していく様を描いている。
    ヴィスコンティはイタリア貴族の名門中の名門。
    主人公・ルートヴィヒは、バーヴァリア王国(ドイツ南部バイエルン地方のミュンヘンに首都を置く)の国王。
    ルートヴィヒは純粋さと王族として育った環境(教養や躾けと言ったもの)によって、芸術と言うものに強い関心を持った。
    この点はヴィスコンティと共通する点でも有る。
    ルートヴィヒの悲劇は、ヴィスコンティよりも半世紀早く生まれたことが大きく影響している。
    それは旧時代から新時代過渡期とも言える時代。
    ルートヴィヒは心の自由を求め孤独を好んだ。
    このことが彼の立場、特に彼の所属する階級には許されないことだった。
    時代が違えば許されたことであったとしても、20世紀に向かう激動の時代において、王制の存在自体が疎まれた時代おいて許されることでは無かった...特に政治家にとっては。

    ルートヴィヒは自分の理想のため、ワグナーに莫大な国費を投じたが、それは国民、国に受け入れられなかった。
    ルートヴィヒは自分の中に有る、自由を求める心、欲求が有ったが、それを手に入れているかのような女性、エリザベートに恋をする。
    しかし、それはルートヴィヒやエリザベートにおいても許される恋では無かった(この点、エリザベートは現実的)。
    彼の理想と孤独を求める欲求は、最初からこの時代に受け入れられる事は無かった。
    ルートヴィヒは、まず戦争という現実から逃避した。
    それからは常に現実とは向き合おうとはしない。
    国王としての義務、世継ぎを作ること、これ(結婚)も拒否をした。

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    ヴィスコンティは、明らかに時代に押しつぶされる、ある階級を徹底的に描いている。
    ルートヴィヒだけではない、ルートヴィヒの母親の皇太后も、弟オットーも、輝きを失っていく。
    ルートヴィヒの追い求める、芸術や孤独の裏側に有るのは、常に人への、人からの“愛情”で有った。
    これがうち破られ、彼は本当の孤独になり自らの人生に自分で幕を下ろす。
    ルートヴィヒが男色に走るシーンが描かれるが、これはカトリックの教えを彼なりに守った故。
    婚約者ソフィーとの婚約解消の際に、司教に童貞で有ることを聞かれる。
    彼は唯一愛した女性エリザベート以外に結婚の意志もなく、童貞を守り続けること誓うのがこのシーンで判る。
    また舞台女優が、ゴシップ目当てにルートヴィヒに近づいて来るシーンも、彼の純潔さを表現している。

    ルートヴィヒが政府に追いつめられた時に、エリザベートはルートヴィヒが作った城を周り、ルートヴィヒの元を訪れる。
    ルートヴィヒが建てた壮大な城を見てエリザベートは大声で笑う。
    彼女は、はっきりとルートヴィヒを理解したのだ。
    本来はルートヴィヒに会って、彼の浪費を諫めに来たはずだが、ルートヴィヒが会わないことを知ると、あっさりと帰ってしまう。
    彼女には痛いほど、ルートヴィヒの悲しみと苦悩が感じてしまう...だから、逢わずに帰ってしまう。

    しかし、この映画の本当の素晴らしさは、そのテーマ自体ではない! これを如何に表現したか?に有る。
    ヴィスコンティの演出の素晴らしさには目を見張る。
    カメラのアングルや音楽の当てはめ方...そして、その完璧性。
    鏡の使い方や色使い、ルートヴィヒが幽閉された精神病院的な城は、モノトーン的な色使いをしている。
    それまでの鮮やかな色使いから一転する。
    鮮やかと言えば、洞窟に池を作り船を浮かべて白鳥を泳がしている。
    ワグナーの音楽が鳴り響く。

    どのシーンをとっても印象的で美しい造形。
    調度品にしても全てが本物(少なくともそう見える)で、貴族出身のヴィスコンティでなくては、これだけ細部までのこだわりは出せないはず。
    幽閉された城に掛けられた絵の数々は、エリザベートに招待されて初めてソフィーに会った部屋に掛けられていたもの(確か...?)。
    そう言った一つ一つのシーンを印象づけ、しかも意味の有るものにしている。

    またヴィスコンティの最も得意とする人物描写と俳優への演出。
    ルートヴィヒを演じたヘルムート・バーガーやエリザベートを演じたロミー・シュナイダーの素晴らしさは言うまでもないが、他の人物に関しても丁寧に描かれる。
    一つの例としてルートヴィヒを捕らえに来た中心人物の大臣・ホルンシュタイン伯爵の描き方。
    あまりにも野心的で頭の切れる人物であることを明確に描ききっている。
    ルートヴィヒの母親にしても、彼女の威厳有る態度がルートヴィヒの立場を明確にし、しかもプロテスタントからカトリックへの改宗(?)のシーンでの疲れ果てた表情で、時代の流れまでも表現させている。
    ストーリーと言っても、一人の人生を描いているだけにも関わらず飽きさせないのは、人物の描き方が魅力的だからであろう。

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    ヴィスコンティ作品のどこが良い?『ルートヴィヒ』のどこが素晴らしい?と聞かれても一言で答えを出すことは出来ない。
    それは絵のルノワールやゴッホ...音楽のベートーベンやモーツァルト...のどこが良いのか?と聞かれるのと一緒。
    映画という総合芸術そして娯楽性、それを見事に表現しているのがヴィスコンティ作品であり、特にその表現力と言う点で、ヴィスコンティ作品の中でも『ルートヴィヒ』は優れた作品と言える。
    映画のなんたるか!が、この作品で味わうことが出来る、傑作中の傑作。

    イタリア語版ではルートヴィヒ役のヘルムート・バーガーの吹き替えをジャンカルロ・ジャンニーニ(後にヴィスコンティの『イノセント』に出演)を起用するなど、豪華。
    ヴィスコンティの偉大さが判る。
    また題名の日本語表記が「ルードウィヒ」から、「ルートヴィヒ」に変更されている。

    映画『ルードウィヒ』のデータ

    映画『ルートヴィヒ』 デジタル修復版 [Blu-ray]

    LUDWIG 184(240)分 1972年 イタリア=西ドイツ(現ドイツ)=フランス

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■ウーゴ・サンタルチーア
    製作総指揮■ロバート・ゴードン・エドワーズ
    原案・脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/エンリコ・メディオーリ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    撮影■アルマンド・ナンヌッツィ
    音楽■ロベルト・シューマン『子供の情景作品15』/リヒァルト・ワグナー『ローエングリーン第一幕への前奏曲』、『トリスタンとイゾルテ』、『タンホイザー』、『最後のピアノ曲』/ジャック・オッフェンバック『パリコール序曲』
    ピアノ独奏・演奏指揮■フランコ・マンニーノ
    演奏■サンタ・チェチリア国立音楽院管弦楽団
    編集■ルッジェーロ・マストロヤンニ
    美術■マリオ・キアーリ/マリオ・シッシ
    衣装■ヒエロ・トージ
    助監督■アルビーノ・コッコ
    製作会社■メガ・フィルム/ディーター・ガイスラー・プロドゥクツィオーン/ディフィナ・フィルム/シネテル
    備考■テクニカラー、パナビジョン
    日本公開■1980年
    出演■ヘルムート・バーガー/ロミー・シュナイダー/トレヴァー・ハワード/シルヴァーナ・マンガーノ/ゲルト・フレーベ/ヘルムート・グリーム/イザベラ・テレジンスカ/ウンベルト・オルシーニ/ジョン・モルダー・ブラウン/フォルカー・ボーネット/ハインツ・モーク/アドリアーナ・アスティ/ソニア・ペトローヴァ/マルク・ボレル/ノラ・リッチ/マーク・バーンズ

    【解説】
     狂王と呼ばれたバイエルン国王ルードウィヒ二世は、19歳で玉座につき、その美的趣味を国費でもって究めたいけない人。ワグナーのパトロンになって、言われるがままに金を出し、オペラ劇場を作るわ、自分でも三つのお城を建てて、その一つ、リンダーホフ城には地下に人工池造って白鳥のゴンドラうかべてるし……。そんな贅沢三昧そのままに、映画はそれら本物を使ったり、再現して、もう垂涎の絵巻物を繰り広げる。けど、ルードウィヒは寂しいのだ。最愛の従姉エリザベート(R・シュナイダーの白鳥に跨る姿の美しさ!)は人の妻(オーストリア皇后)。その妹ソフィと結婚するはずが、やっぱ諦め切れなくて婚約破棄。以後はただもう、そんな享楽生活に身も心も捧げて歯も腐るほど。親しい人(含む愛人の男たち)みんなに逃げられて、結局“ご乱心”とされ幽閉。暗殺だか自殺だか判らぬ死を迎える。製作会社を倒産に追い込み、自分は卒中に倒れても完成させた大作だが規模だけでなく、その精神の気高さ、深い教養、美への執着において、このような映画は二度と作られまい。これをヴィスコンティは、主演のお稚児さん、H・バーガーを役者として大成させるために作ったってぇんだから、侯爵さまのなさることはスケールが違う。彼のドイツ三部作(「地獄に堕ちた勇者ども」「ベニスに死す」)の終幕を飾る作品で、その死後、本作の回想形式をとらない完全版(220分余)がM・マストロヤンニの弟ルッジェロの編集によって作られた。(映画データベース – allcinema より)

  • 映画『ベニスに死す』 映画、映像の極致、美への探求に死す

    映画『ベニスに死す』 映画、映像の極致、美への探求に死す

    映画『ベニスに死す』 MORTE A VENEZIA

    morte-a-venezia

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    私が最も愛する作品、映画として映像としての極致にある

    これ程、感覚的な映画が有るだろうか?そんな問いを投げたくなるような作品。
    映像と音楽がストーリーを語っている。
    マーラーの音楽に心酔してしまう。
    映像はヴィスコンティの他の作品に比べると、色彩という点では趣が違う。
    全体的に白を基調としたもの、他の作品は赤や黒、黄金と言った色が基調。
    それだけに主人公のアッシェンバッハの醜さとタッジョの美しさが際立つ。

    この作品は“美”とは?“芸術”とは?と言う問いを投げかけ、究極の美という物をテーマに置いている。
    “美”の象徴がタッジョであり、アッシェンバッハの老醜が描かれている。
    ここで描かれる“美”は、“知性”に依って生み出される物ではなく“自然”が生み出す物...甘美な物(欲望の現れ?)として描かれる。
    それは才能が生み出す奇跡だと...

    morte-a-venezia

    タッジョを観ていると恐ろしい物を感じる。
    “美”を生み出す才能を手に入れるために悪魔と手を握る必要が有るのでは...タッジョこそが悪魔の使いなのか?そんな幻想を思い起こさせる。
    アッシェンバッハはタッジョを追い回す。
    タッジョ(悪魔の使い)の気を引くために(死に)化粧までほどこす。
    タッジョもアッシェンバッハにつけられているのを知り、振り返っては、(“美”と言う欲望の世界に)誘惑していく。
    アッシェンバッハはタッジョに向かって独り言を言う...「愛している」と、それは、悪魔に心を売っても“美”を手に入れたいという誓いの言葉なのかもしれない。
    またアッシェンバッハは、タッジョが一人で『エリーゼのために』をピアノで弾いているのを見て、娼婦との交わりを思い起こし頭の中でタッジョ肉体的に犯している...悪魔の誘い(美)に溺れるのである。
    そして海に向かってダビデ像のポーズを取るダッジョに“美”を見て(手に入れて)、引き替えに魂(命)を悪魔に奪われる。

    morte-a-venezia

    余りに、美しい数々のシーン、そして言葉以上に語る音楽、この2つが美しすぎるだけに、その残酷さが際立つ。
    ラストのアッシェンバッハの死体が、運び出されるシーンのなんという怖さ!
    屍は、この美しく甘美な世界からは放り出されなければならないのか?

    ヴィスコンティは、この作品で“美”と言う物を映像と音楽で見せつけ、神(知性)と悪魔(欲望)の世界を描き挙げている。
    彼は長年暖めていたこの作品の企画を、ビヨルン・アンドレセンと言う完璧な美少年(好みは有るが)を手に入れたことにより実現にこぎ着けた。
    余りにも甘美で倒錯した美しい世界である...それだけに残酷である。

     

    映画『ベニスに死す』のデータ

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    LA MORTE A VENEZIA
    DEATH IN VENICE [米] 131分 1971年 イタリア=フランス

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作総指揮■マリオ・ガッロ
    原作■トーマス・マン
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/ニコラ・バダルッコ
    撮影■パスクァリーノ・デ・サンティス
    音楽■グスタフ・マーラー『交響曲第三番ニ短調第四楽章』、『第五番嬰八短調第四楽章』
    指揮■フランコ・マンニーノ
    演奏■サンタ・チェチリア国立音楽院管弦楽団
    編集■ルッジェーロ・マストロヤンニ
    美術■フェルディナンド・スカルフィオッティ
    衣装■ピエロ・トージ
    助監督■アルビーノ・コッコ
    製作会社■アルファ・チネマトグラフィ/ラ・プロデュクション
    備考■テクニカラー、パナヴィジョン
    日本公開■1971年
    出演■ダーク・ボガード/ビョルン・アンドレセン/シルヴァーナ・マンガーノ/ロモロ・ヴァリ/マーク・バーンズ/ノラ・リッチ/マリサ・ベレンソン/キャロル・アンドレ/レスリー・フレンチ/セルジオ・カラファノーロ/チロ・クリストフォレッティ/アントニオ・アピチェッラ/ブルーノ・ボスケッティ/フランコ・ファブリツィ/ドミニク・ダレル/マーシャ・ブレディット

    1971年カンヌ国際映画祭
    25周年記念賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ
    (ルキノ・ヴィスコンティ自身の功績も共に表彰された)

    【解説】
     掛け値なしに美しい映画だ。T・マンの原作ではギリシア神にも喩えられる少年タジオが現実にもいたせいだ。そのB・アンドレセンの美少年には主人公ならずとも、ヘテロの男性をも“その気”にさせる妖しさがあり、彼に出会えたことを“奇跡”と呼んだヴィスコンティの驚喜はよく分かる。彼とそして、全篇に流れる感傷的なマーラーの五番の第四楽章のお蔭で、この作品は耽美の極みに観る者を浸らせる。理想の美を少年に見出した作曲家アッセンバッハは、浜に続く回廊を少年を求めてさまよう。疫病に罹ってもなお、化粧をその顔に施させ、ヴェニスの町を徘徊し、やがて疲れた体を海辺のデッキチェアに横たえる。波光がきらめく。満足の笑みを浮かべつつ涙し、化粧は醜く落ちていく……。痛切な幕切れは同時にひたすら甘美だ。(映画データベース – allcinema より)

    この作品、最初に観た時は、他のヴィスコンティ作品よりも自分の好みではなかった。
    何度か見ているうちに、一番好きな作品の一つとなった。
    トーマス・マンの原作(原作は音楽家ではなく作家)だが、実は同じマン原作「ファウスト博士」の”悪魔との契約”と言うテーマが大きなベースとなっている。
    マンのファウストは、20世紀初頭のナチズムの台頭に合わせて書かれている。
    そして、その基になったゲーテの「ファウスト」をベースしたと思われるのが、宮﨑駿監督の最後の作品『風立ちぬ』。
    そう言う意味では『ベニスに死す』と『風立ちぬ』には大きな共通性を感じ、共にファシズムの台頭と言う時代を感じさせるものになっている。

  • 映画『地獄に堕ちた勇者ども』 リアリズムからデカダンへ、ナチズムを描く

    映画『地獄に堕ちた勇者ども』 リアリズムからデカダンへ、ナチズムを描く

    映画『地獄に堕ちた勇者ども』 LA CADUTA DEGLI DEI

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    ヴィスコンティに取っての集大成と言える

    時代がナチの時代に移行しようとする中で、滅び行く古い階級の人々のしがみつく姿が象徴的な描かれる。
    また、それを壊す象徴的な事件として、息子による母親の強姦のシーンが有る。
    旧時代の上流階級も、ナチズムも人間の中に有るもの“欲求”の一部でしかない。
    それがぶつかり合った時に、強いものが弱いものを駆逐する・・・その時の弱いものの悲劇、また、そこには強いもの達にも悲劇が有ると・・・
    この作品では、ヘルムート・バーガーの女装シーンなど1920年代のヴィスコンティのパリでの文化的影響も強く見ることが出来る作品でもある。

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    ヴィスコンティの大きな転換期を迎えた作品と言えよう。
    彼の『山猫』がリアリズモの時代から退廃と言った時代への転機としたら、この作品で見事にヴィスコンティは変わったと言える。
    この作品のテーマはナチズム(=ファシズム)で有る。
    それはヴィスコンティの中の退廃と言うものを一番表現したものかもしれない。
    ヴィスコンティは人間の欲望と言うものを、これ以降の作品の中で一貫して描いていく。
    この作品でのナチズムは人間の欲望の象徴である。
    アッシェンバッハが、マルチンに「フリードリッヒはナチズムの本質が判っていない」と言う。
    ヴィスコンティの人生において、第二次世界大戦を経験し彼は一時期、共産党の戦士としてファシズムと対峙する。
    この物語もドイツがワイマール憲章による民主国家が、ロシアの共産主義の脅威にさらされて、その反動で右傾化した事がナチズムの台頭を生んだ。
    しかしその本質として、何故、ナチズムがこれ程までにドイツの中で蔓延ったのか?それを、ヴィスコンティは鋭く映像化している。

    la-caduta-degli-dei

    それは人間の本質的なところに有るのだ!
    人間の欲望を膨らませること、そして必ずその欲望を実現すること...そのためには手段を選ばないこと。
    誰にでも存在する“欲望”、その恐ろしさこそがナチズムの恐怖そのものなのだ...
    ヴィスコンティの凄いところは、その欲望の表現手段に有る。
    見事なまでに人間個々の欲望、フリードリッヒの権力欲で有り、ソフィの独占欲で有り、アッションバッハの権力欲で有り、マルチンの倒錯的な愛欲...それら全ての欲望を飲み込んでしまう。
    そして明確な形が無いまま増殖する...
    そうナチズムは、それそのものが“欲望”なのである。

    damned

    ヴィスコンティは、一見、ナチズムを優美で甘美に描いているようにも見える。
    ナチの黒と赤の制服、美しい食卓、可愛い少女達...またナチと権力争いをしていた突撃隊の粛正...突撃隊も一方で“欲望”が生み出した怪物。
    しかしナチの怪物の前に喰われてしまう運命であったのだ...
    その欲望が余りにも美しいことがナチズムの誘惑であり、それを表現し得るのはヴィスコンティしかいない...
    恐ろしくも美しい、美しいから恐ろしい...そんな作品である。

     

    映画『地獄に堕ちた勇者ども』

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    The Damned
    La Caduta Dei 157分 1969年 イタリア/スイス/西ドイツ(現ドイツ)

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■アルフレッド・レヴィー/エヴァー・ハギャッグ
    原案・脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/ニコラ・バダルッコ/エンリコ・メディオーリ
    撮影■アルマンド・ナンヌッツィ/パスカリーノ・デ・サンティス
    音楽■モーリス・ジャール
    編集■ルッジェーロ・マストロヤンニ
    美術■パスクァーレ・ロマーノ
    衣装■ピエロ・トージ/ヴェラ・マルツォ
    助監督■アルビーノ・コッコ/ファニー・ヴェスリンク
    製作会社■ペガソ・イタルノレッジオ/プレジタン/アイヒベルク・フィルム
    備考■テクニカラー
    日本公開■1970年
    出演■ダーク・ボガード/イングリッド・チューリン/ヘルムート・グリーム/ヘルムート・バーガー/ルノー・ヴェルレー/ウンベルト・オルシーニ/ルネ・コルデオフ/アルブレヒト・ショーンハルス/フロリンダ・ボルカン/ノラ・リッチ/シャーロット・ランプリング

    1969年アカデミー賞
    脚本賞ノミネート ルキノ・ヴィスコンティ/ニコラ・バダルッコ/エンリコ・メディオーリ

    【解説】
     ヴィスコンティのドイツ三部作の巻頭を飾るのは、第三帝国の隆盛と共に崩壊に向かっていく鉄鋼王国一家の悲劇をオペラ的に描く頽廃の叙事詩である。ドイツの工業中心地帯、ルール地方に権勢を誇る製鉄王、男爵エッセンベック老の誕生日に一族郎党が集まる開幕からして実に怪しい雰囲気で、老男爵の財産を皆が虎視眈々と狙っているのが一目にして分かる。ナチス躍進の33年2月のことだ。おりしもベルリンで国会議事堂焼き討ちの報が入り、不気味さは増す。やがて男爵は、従弟のアッシェンバッハ(グリーム)の差し金で邸内に乱入した親衛隊の騒動の中、娘ソフィ(チューリン)とは愛人関係にある総支配人フリードリヒ(ボガード)の手で射殺され、大コンツェルンの実権は彼らに握られる。アッシェンバッハは更に、目障りな親族たちを片端から始末し、男爵の甥の息子ギュンター(ヴェルレー)はナチに引き入れ、ソフィの息子マーティン(バーガー)の偏執的な性格を利用し、母とその愛人を毒殺させる。が、自分のしでかしたことの重みに耐えかねマーティンも自殺し、遂にナチ以外の一族郎党は消え失せ、エッセンベック邸の広間には巨大ハーケンクロイツの旗が飾られる。凄惨美というのか、ここに描かれるナチズムの恐怖は、作者の意図に反して、浪漫的なものと受け止められてしまっている節もあるが、実に堂々たる滅びの美学の中に潜む諧謔を見逃してはならない。にしても、バーガーが絶望的享楽に耽るシーンの妖しいこと……。(映画データベース – allcinema より)
    第二次世界大戦中『郵便配達は二度ベルを鳴らす』によって、ネオ・レアリスモの口火を切った、ヴィスコンティ監督が、大戦前のドイツを舞台にナチズムによって富と権力を奪われていく、鉄鋼一族の悲劇を描きながら、歴史そのものまで語り尽くした集大成とも言える作品。
    監督自身“今の若い人々に戦争の恐ろしさを知って貰うために、この映画はもっと早く作られるべきであった”と語っている。
    ナチスが台頭し始めた1933年の冬、ルール地方に勢力を持つ鉄鋼王、エッセンベック家の集いの夜、当主が何者かの陰謀によって暗殺される。
    この事件を契機に起こる、一族の跡目相続の骨肉の争いと、それによって漁夫の利を得ようとする陰険なナチス親衛隊の存在を描き出す。
    『ベニスに死す』へ続くドイツ三部作(’72年の『ルードウィヒ/神々の黄昏』で完結)の最初に位置するこの作品で、ヴィスコンティは人間の愛憎と相剋をデカダンスの極致とも言える映像美で浮き彫りにする。

  • 映画『熊座の淡き星影』 姉弟相姦、デカダンはここから始まる

    映画『熊座の淡き星影』 姉弟相姦、デカダンはここから始まる

    映画『熊座の淡き星影』  VAGHE STELLE DELL’ ORSA

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    ヴィスコンティの後期の作品への転換となる

    人間の果てしない欲望、美しい姉弟の禁断の愛を描いてみせる。
    禁断の愛を巡る、その時点の嫉妬や過去の嫉妬、そして父の思い出に対する思い。
    人間の最も美しい筈の愛の形が、姉弟と言うものの結び付きで表された時、それは周囲の人々からは最も醜悪なものとして映し出される。

    姉サンドラと弟ジャンニにとって、過去においての思いは美しいもので有ったに違いない。
    サンドラにとっては、それは過去の話で、今においては忘れ去りたい思い出になっている。
    しかしジャンニは今においても美しい思いなのである。
    その違いは何か?そこに有るのは人と人との結び付きなのである、人は人との関係の中で生きていく。
    姉弟は、父が母の密告によってアウシュビッツの収容所で死んでいったと言う思い出の中で、人との結び付きを拒絶した。
    そのことが禁断の愛へと二人を走らせる。
    時は経ち、姉は父の思い出をトラウマとしながらも新しい愛を見つけ、それに旅立とうとしている。
    弟はトラウマを断ち切れず思い出として心にしまう、いや思い出の中に生きている。
    そう過去と今が交差する、その時それは耐えきれない破綻を生み、そして弟は自らを滅ぼすしか選択肢はなくなっていく。

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    ヴィスコンティのこれ以降の作品に見られる、過去と現代の悲劇がそこに現れている。
    ここには、一つの夫婦、一つの姉弟、それを取り巻く小さな村の人々の物語である。
    その中に見事なまでに、人間の本質、孤独と欲望、その先に有る破滅を描いてみせる。
    そしてその映像はあくまで美しく、美しいからこそ、そこに映し出される人間の本性の醜さが浮き彫りにされていく。
    クラウディア・カルディナーレが妖しいまでに美しい。
    野性的な美とミステリアスな表情・・・肉体的な妖艶さと幼さを感じさせる表情、大きく猫のような瞳、彼女をこれ程までに魅力的に描いた作品は他にはないだろう。

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    映画『熊座の淡き星影』のデータ

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    VAGHE STELLE DELL’ ORSA (SANDRA: OF A THOUSAND DELIGHTS) 105分 1965年 イタリア

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■フランコ・クリスタルディ
    プロダクション・オーガナイザー■オスカール・ブラッツィ
    原案■ルキノ・ヴィスコンティ
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/エンリコ・メディオーリ
    撮影■アルマンド・ナンヌッツィ
    音楽■セザール・フランク
    演奏■アウグスト・ドッターヴィ
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■アリオ・ガルブリア
    衣装■ビーチェ・ブリケット
    助監督■リナルド・リッチ

    製作会社■ヴィデス
    備考■白黒
    日本公開■1982年11月
    出演■クラウディア・カルディナーレ/ジャン・ソレル/マイケル・クレイグ/マリー・ベル/レンツォ・リッチ/フレッド・ウイリアムズ/アマリア・トロイアーニ

    ◆ヴェネチア国際映画祭 1965年
    サン・マルコ金獅子賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ
    チネマ・ヌオヴォ賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ

    【解説】
     ギリシア悲劇の『エレクトラ』になぞらえた、この中部イタリアの古都が舞台の、貴族階級の孤児院の姉弟の禁断の愛を描いた作品は、ヴィスコンティの絢爛たるデカダン絵巻の後期作風への転回点ともなる重要作。主人公らはまだうら若き男女であり、「イノセント」の醜悪なまでの気高さを持つには至らないが、それでもここに描かれた貴族の滅びの美学は、作者の自らの出自に対する拘りと憐れみを存分に感じさせ興味深い。
     結婚まもない米国人の夫と共に、NYでの新生活を前に、故郷ボルテッラの実家を訪れたサンドラ(C・カルディナーレ)は、幼い時に父をアウシュビッツの収容所で亡くしていた。今や屋敷は再婚後、精神をおかしくした母(M・ベル)と義父(L・リッチ)のものであり、弟ジャンニ(J・ソレル)が肩身の狭い思いで彼らと同居していた。姉と彼との精神的絆は強固で、別々の寄宿学校にやられそうになった際も二人してそれを頑なに拒んだものだった。夫アンドルーは次第にその中に立ち入れないものを感じ始める。彼はまた、不仲の義父と姉弟の間をとりもとうとして失敗。置き手紙を残し、先にNYへと発ってしまった。弟は姉に兄弟愛以上の感情を持ち続け、それは今も変わらない。が、姉は弟の気持ちを振り切ってジャンニは衝撃を受ける。屋敷の一部を図書館として町に寄贈したことの返礼の、父の胸像の除幕式が執り行われ、サンドラが出席する一方、ジャンニは自室で服毒自殺を図り、既に事切れていた…。
     義父と母が密告して父を逮捕させた疑惑が作品を暗くミステリアスに縁取って、幻灯機で天井に映した星座–ちょっとしたプラネタリウムに、二人寝床の中で眺め入る…といった姉弟の幼少期の思い出が甘美に綴られるあたり、大変印象深い。(映画データベース – allcinema より)

  • 映画『山猫』 ヴィスコンティの前半を飾る大河ドラマ

    映画『山猫』 ヴィスコンティの前半を飾る大河ドラマ

    映画『山猫』 IL GATTOPARDO

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    雄大な歴史的な背景から詳細な描写までを描ききる

    この作品、シチリアのバルマ公爵ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドャーザが、死ぬ前年1957年に書き上げた長編小説をヴィスコンティの数々の作品(『夏の嵐』、『イノセント』)を手伝っている、スーゾ・チェッキ・ダミーコ他3名が脚色した。
    また当初161分の作品として公開されたが、カンヌ映画祭に出品の際にオリジナル版(イタリア語)が公開さている。

    なんと言っても、ヴィスコンティの一大叙事詩であり、大河ドラマでも有る。
    この作品は、イタリア版『風と共に去りぬ』とも言える。

    『風と共に去りぬ』では、南北戦争の中、南部が時代に取り残されていく。
    ここでは、イタリア統一戦争の中、貴族である公爵家が没落していく。
    『風と共に去りぬ』はアメリカの物語らしく、明日への希望に満ちている。
    この作品は、あくまで貴族の後ろ姿を描く。

    ヴィスコンティの作品の中では、非常にストーリーが分かり易い。
    ただ、これだけの大きな展開のドラマ、少し冗長な面も有るが、ヴィスコンティの演出に破綻は感じられない。
    むしろバート・ランカスターを除く、脇の俳優陣の演技が全体的に薄くなっいるように感じる。
    と言っても、それはヴィスコンティの他の作品に比べての事。
    アラン・ドロンも非常に魅力的で野心を持った青年を好演。
    また貴族と新興ブルジョワとの関係を見事に演じた、クラウディア・カルディナーレも魅力的。

    そして物語のダイナミック部分をそれ以上に素晴らしい映像で包み込んだ。
    全てのセットに本物を使い、本当の贅沢、豪華というものを、ごれでもか!と言うくらいに見せ付ける。
    ラスト近くの舞踏会のシーンは、圧巻!
    立派な内装と美しい調度品に囲まれた数々の部屋をいくつも使用して全員で踊るシーンは、これ以上は無いという豪華さ、本物がそこにある(実際は、室内を明るくするためにかなりの照明が必要だったようだ)。

    貴族の生活が余りに豪華なため、それを失うことを映し出すラスト・シーンは余計にもの悲しい。銃声の音が、力による時代の変化を表現する。

    il-gattopardo

    英語版(2時間41分)について。
    こちらの尺は、イタリア語版(3時間25分)に比べ大幅にカットされている。
    と言うのも、膨大の資金を調達するに当たって、ハリウッドの20世紀フォックスの協力を得たためで、映画館の回転数を意識した20世紀フォックスの意向で短くされている。

    それはともかくとして作品自体、改めて観ると短い感じがする...別にイタリア語版が有るというのを知っているから、そう思うのではない。

    この映画には、大きく2つのストーリーが混在している(筈だ)。
    1つは、主人公の老公爵(と言っても40代だと思ったけど)の物語。
    そしてもう1つは、アラン・ドロン演じる公爵の甥とカルディナーレ演じる資産家の娘の物語。
    1つ目の話が、映画が進むうちに徐々に収束して行き、2つ目の話が徐々に拡大していく、対象をなす形だと考えずにはいられない。
    その点で、2つ目の話が特にアラン・ドロンがカルディナーレに恋する背景や、カルディナーレが街娘から淑女に変わっていく様の描写が、少ないような気がして物足りなさを感じさせる。

    この作品はヴィスコンティの後期の傑作群に繋がるテーマが見受けられる。
    それは古い世代が滅び行く美学。
    バート・ランカスターが見事に、力強く過去の世代の老公爵を演じれば演じるほど、その悲しみの深さが画面ににじみ出る。
    老侯爵は、頑固であり、しかし理解者であり英知の人でも有る。
    それは老侯爵が他の登場人物より見た目の体格でも一番大きく、それ自体、威厳を象徴している。

    この映画の魅力的な点は大きく二点。
    一つは俳優の魅力である。
    バート・ランカスターは見事なまでに老侯爵の立場を演じて見せた。
    そして若い二人の俳優、アラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレは若々しさ、そして美しさ、どことなく品のなさと悪魔的なところ、ドロンとカルディナーレは見事に共鳴しあう。

    私の好きなシーンは、カルディナーレがパーティーで、バート・ランカスターにワルツを一緒に踊るよう申し込むシーン。
    そしてワルツを踊っている二人を見つめるアラン・ドロンの表情が大好き。

    il-gattopardo

    もう一つのこの作品の美点は、そう背景のディテイルに有る。
    イタリアの解放戦争を描くため、数多くのエキストラを配しロケを敢行したこと(確かにお金が掛かる)、そしてパーティーのシーン等 の“部屋”。
    そこに生きている人々の位置づけを、部屋を見せることで観客に圧倒的な映像で見せつける。

    雄大な歴史的背景と、ディテイルの美しさ細やかさ、そして人物描写の克明さ、映像の持つ力をこの映画で知ることになる。

     

    映画『山猫』のデータ

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    IL GATTOPARDO (THE LEOPARD) 205(161)分 1963年 イタリア=フランス

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■ゴッフリード・ロンバルド
    原作■ジュゼッペ・トマージ・デ・ランペドゥーサ
    脚本■スーゾ・チェッキ・ダミーコ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/エンリコ・メディオーリ/マッシモ・フランチオーザ/ルキノ・ヴィスコンティ
    撮影■ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ/フランコ・フェルラーラ(指揮)/サンタ・チエチリア国立音楽院管弦楽団(演奏) 『ヴェルディの未発表のワルツ』
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■マリオ・ガルブリア
    衣装■ピエロ・トージ
    助監督■リナルド・リッチ/アルビーノ・コッコ
    製作会社■20世紀フォックス/ティタヌス/SNPC/SGC
    備考■テクニカラー/テクニラマ
    日本公開■1964年、1981年完全版公開
    出演■バート・ランカスター/アラン・ドロン/クラウディア・カルディナーレ/リーナ・モレッリ/パオロ・ストッパ/セルジュ・レジアーニ/ロモーロ・ヴァッリ/レスリー・フレンチ/イーヴォ・ガルラーニ/マリオ・ジロッティ/ルッチラ・モルラッキ/ピエール・クレメンティ/ジュリアーノ・ジェンマ/イーダ・ガッリ/オッタヴィア・ピッコロ/ハワード・N・ルビエン

    アカデミー賞 1963年
    衣装デザイン賞(カラー)ノミネート ピエロ・トージ

    1963年カンヌ国際映画祭
    パルム・ドール授賞 ルキノ・ヴィスコンティ

    【解説】
     巨匠L・ヴィスコンティ監督が実在の貴族ランペドゥーサの小説を基に、B・ランカスター、A・ドロンら豪華競演陣を配して貴族の斜陽を重厚に描いた壮大なドラマ。日本公開においてはまず64年に大幅に短縮された英語国際版が上映され、次いで81年にイタリア語のオリジナル版、そして2004年に完全復元版が公開された。
     1860年春、統一戦争下のイタリア。腐敗した貴族支配からの解放を目指す統一運動の波は、ここシチリア島にも押し寄せる。そのシチリアを300年の長きに渡って統治してきたのは“山猫”の紋章を持つ名門貴族サリーナ公爵家だった。自らの終焉を感じながらも、これまで通り優雅に振る舞う公爵。一方、彼が目をかけていた甥のタンクレディは革命軍に参加し、機敏に立ち回る。ある日、片目を負傷し休暇の出たタンクレディは、避暑に向かうサリーナ公爵一家と合流、やがてそこで新興ブルジョワジーの娘アンジェリカと出会い恋に落ちるのだった。(映画データベース – allcinema より)

    山猫を紋章に持つ貴族ファブリッツォ公爵家は、300年の長きに渡ってシシリーに勢力を誇っていた。だが、イタリア統一運動の波はシシリーにも押し寄せ、公爵の甥は義勇軍に身を投じる・・・。
    実在の貴族ランぺドゥーサの小説をもとに、ヴィスコンティが貴族の斜陽を重厚に描く。
    イタリア語版が205分のオリジナル、英語版は20世紀フォックスの要望により、161分となっている。
    日本で公開されているのは英語版で、カンヌ国際映画祭ではイタリア語版でグランプリのバルム・ドールを授賞。
    またマーティン・スコセッシが設立したThe Film Foundationとグッチの資金提供により、2010年に約1億円の費用と1万2000時間をかけて修復されたものが、日本でも劇場公開がされている。

  • 映画『ボッカチオ’70』 ヴィスコンティらイタリアの巨匠たちのオムニバス

    映画『ボッカチオ’70』 ヴィスコンティらイタリアの巨匠たちのオムニバス

    映画『ボッカチオ’70』 BOCCACCIO ’70 : Il Lavoro

    boccaccio-70

    短編四つからなる、オムニバス形式の作品。
    イタリアの現代劇を、イタリアの4人の巨匠(モンチェッリも巨匠なのかな?)が、独自のストーリーで語っていて、それぞれに特徴が有り面白い作品に仕上がっている。

    ヴィスコンティは第3話「前金」(主演:ロミー・シュナイダー)の挿話を担当している。

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    第1話「レンツォとルチアーナ」(劇場公開時は、第2話)

    会社に黙って結婚した若いカップルが、親との同居の問題や、上司のセクハラ?の問題にぶちあたり、最後は...と言う、若いカッ プルの右往左往ぶりを軽いタッチでさわやかに描いている。
    当時のイタリアの若者達の生活が垣間見れて面白い。
    まっ当時も今も、若い夫婦の悩みは余り変わらないのかも。
    監督の個性が余り感じられない分、判りやすく見易い、逆に物足りないと感じるかも。

    第2話「アントニオ博士の誘惑」(劇場公開時は、第1話)

    boccaccio-70

    これはもう、フェリーニ、フェリーニ、フェリーニで有る!
    物語の進行役に子供の天使?が現れ、ちょっと甲高い声で観客を物語の中へ導く。
    そしてそこに出てくる堅物教授もまた、フェリーニのらしい人物像である。
    それらの人物をフェリーニは、顔のアップで表情を映し出す。
    フェリーニは、時に人々の動きを踊りであったり、群衆によって表現し、そして対照的に人物の表情一つ一つを強烈な顔のアップの映像で映し出す。
    ヒッチコックは、“内面に燃えるような情熱を持ちながら表面上は氷のようにすました女性”を好んだが、フェリーニは見るからに情熱的な女性こそが男性を虜にすると言う、“男の性”を画面に映し出す。

    アニタ・エバーグはフェリーニの女優らしい...そして彼女が、堅物の教授を虜にしていく姿、そして最後の教授の露わな惨めな姿が、男の本性なのである。
    短編ながら見事なフェリーニらしい傑作である...
    ただ、やっぱり私は、フェリーニの語り口は苦手で、それでいて好きなのだ。

    第3話「前金」(劇場公開時は、第3話)

    boccaccio

    今回観た中では、原題の日本語訳が「仕事中」になっていたが、書籍等で見る限り「前金」と言うタイトルが正しいのか?

    ヴィスコンティが描いた女性は庶民ではなく、ブルジュワの女性。
    彼女の立場とその哀れさを見事にこの短編の中に描いている。
    そして、その登場人物の描き方が余りにも見事過ぎることに、やはり短編だったとしてもヴィスコンティらしい素晴らしい作品と言える。

    仕事というものに意識がない(仕事が何かを理解をしていない)ブルジュワの女性が、仕事を理解する時、その彼女の立場が如何に不毛で悲劇的なものか、その属している階級から逃れられないかを、この短い時間の中で描ききっている。
    素晴らしいのは、主演のロミー・シュナイダーである。
    彼女は、一見うぶな女性でありながら妻としてのしたたかさ、それ以上に魅力的な女性を演じ切っている。
    その魅力こそが、夫婦間に置いても男女の関係を成り立たせていることを、観客に納得させる演技力・魅力を兼ね備えている。
    キューブリック監督の遺作『アイズ ワイド シャット』とある意味、テーマが近いのかもしれない(語り口は、全く違うので作品の評価とは直接関 係ないが...)。
    しかしラストは圧倒的に、この作品の方が深刻で深いものを感じる。

    この作品では、主演のロミー・シュナイダーがシャネルのデザインの洋服を着ている。
    また歩き方や身のこなし方もシャネルが指導したらしい。
    そうヴィスコンティに、ジャン・ルノワール監督を紹介したのは、ココ・シャネルだったんですね。

    第4話「くじ引き」(劇場公開時は、第4話)

    boccaccio-70

    デ・シーカらしく、庶民の一人の魅力的な(そしてグラマラスな)女性に対する思いと、そのドタバタぶりをコミカルに描いている。
    残念ながら、この物語でキーになるのは主演のソフィア・ローレンの美しさに有るはずだが、どうも私の好み(の女優)ではない。
    デ・シーカの描きたいのは庶民なのである。
    一生懸命働いて得たお金を、女性とのSexのためのくじ引きにつぎ込んでしまうおじさん達。
    そして、くじを買ってから、みんながその女性を見に行く下りは、可笑しさと悲しさが込み上げくる。
    結局、くじに当たったのは、教会の仕事をしている童貞の男性(30代?、40代?)。
    彼はやらずじまいで追い返されるのだが、周りの人は真実を知らずお祭り騒ぎになる。
    彼女が真実の愛を選ぶと言う過程の話しと言うより、やはり振り回される男達の愚かさを笑いと共に描いている点で、デ・シーカら しく面白く観れる作品だった。

    どの話も個性的で面白い。
    共通していることは、どの作品も女性が男を振り回すのである。
    必見の映画と言いたい、機会が有れば是非。

    映画『ボッカチオ’70』のデータ

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    BOCCACCIO ’70 198分 1962年 イタリア=フランス 公開情報:劇場公開公開年月:62. 65

    監督■ヴィットリオ・デ・シーカ/フェデリコ・フェリーニ/ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■アントニオ・チェルヴィ/カルロ・ポンティ
    脚本■チェザーレ・ザヴァッティーニ/フェデリコ・フェリーニ/エンニオ・フライアーノ/ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    撮影■オテッロ・マルテッリ/ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ/アルマンド・トロヴァヨーリ/ピエロ・ウミリアーニ
    製作会社■コンコルディア・チネマトグラフィカ/チネリッツ/フランシネックス/グレイ・フィルム
    備考■イーストマン・カラー
    日本公開■1962年
    出演■ソフィア・ローレン/ルイジ・ジュリアーニ/アニタ・エクバーグ/ペッピノ・デ・フィリッポ/ロミー・シュナイダー/トーマス・ミリアン

    第一話=アントニオ博士の誘惑
    Le tentazioni del dottor Antonio 54分
    監督■フェデリコ・フェリーニ
    脚本■フェデリコ・フェリーニ/トゥッリョ・ピネッリ/エンニョ・フライアーノ
    撮影■オテッロ・マルテッリ
    音楽■ニーノ・ロータ
    美術■ピエロ・ズッフィ
    編集■レオ・カトッツォ
    出演■ペッピーノ・デ・フィリッポ/アニタ・エクバーグ/ドナテッラ・デッラ・ノーラ/アントニオ・アックァ/エレオノラ・マッジ(キューピット)

    第二話=レンツォとルチャーナ
    監督■マリオ・モニチェッリ
    出演■マリサ・ソリナス/ジェルマーノ・ジリオーリ

    第三話=前金
    Il Lavoro 46分
    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    原案■チェーザレ・ザヴァッティーニ(モーパッサンの短編『寝台の端で』による)
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    撮影■ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ
    編集■マリオ・セランドレイ
    出演■ロミー・シュナイダー/トーマス・ミリアン/ロモーロ・ヴァッリ/パオロ・ストッパ

    第四話=くじ引き
    監督■ヴィットリオ・デ・シーカ
    出演■ソフィア・ローレン/ルイジ・ジュリアーニ/アルウィオ・ヴィータ

    【解説】
     元々は4編のオムニバスだが、日本劇場公開版はマリオ・モニチェッリの監督したエピソードをカット(現在、発売されているビデオには収録。『デカメロン』の中世イタリアの作家ボッカチオが現代に生きていたら、こんな挿話をその著書に書き入れたかも知れない–。そんな発想で生まれた物語四編を、イタリア映画お得意のオムニバス形式で映画化した62年度作品(だから題名の“’70”は当時から見たら近未来を指していたのだ)。日本では無名のM・モニチェッリの担当作(結婚間近の男女の日常を明るく描いたもので、日本人には親しみやすい素直な青春譚だ)はカットされ、残るすでに知られた巨匠たちの三編で公開となった。現在は1・2巻に分かれビデオで完全な形で観られる。第一話デ・シーカの「くじびき」。北イタリアの片田舎で、遊園地の射的場を営む父の借金のカタに、クジの一等賞にされる娘ゾーエ(ローレン)をめぐっての男たちの狂騒をペーソスを漂わせつつコミカルに綴っている。ゾーエには隣村に恋人がいたが、一等を当てた冴えない寺男の母に“一生の想い出に一夜だけでも息子とつきあってくれ”と懇願される……。第二話は「誘惑」、フェリーニ作。熱心なカソリックの道徳家アントニオ博士は、部屋の前の広場に建てられた大看板のグラマー美女(エクバーグ)に激昂するが、いつしかそれは夢にまで現われ……というフェリーニ的な大らかなユーモアが実に楽しい。三話目はヴィスコンティ「現金」で、貴族の若夫婦の倦怠を皮肉っぽく描く。浮気性の夫をやりこめようと、娼婦に化けて誘惑の電話をしたはいいが、あまりに素っ気なく話に乗ったので、シラけた妻はそれから夫と寝る際には報酬を要求することに決める。いずれも作者の持ち味の出た作品の並んだ好企画と言えよう。(映画データベース – allcinema より)

  • 映画『若者のすべて』 美しいアラン・ドロンとヴィスコンティの出会い

    映画『若者のすべて』 美しいアラン・ドロンとヴィスコンティの出会い

    映画『若者のすべて』 ROCCO EI SUOI FRATELLI

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    ルキノ・ヴィスコンティ -作品と演出- はこちら

    2016年12月 4Kデジタル完全修復版 について

    今回日本で公開が実現したのは、マーティン・スコセッシ設立のザ・フィルム・ファンデーションとGUCCIの資金提供により、フィルムを4Kで修復して2015年に完成したもの。
    当時の撮影監督:ジュゼッペ・ロトゥンノの監修により当時の映像を再現。
    また1960年当時、検閲によりカットされた2つのシーンを追加されて2分間尺が延びている。

    改めてこの作品を見ると、ギリシャ神話のような骨太な物語になっている。
    実際、ヴィスコンティは新約聖書やトーマス・マンの「ヨゼフとその兄弟」、ドストエフスキーの「白痴」をイメージしていたと言うし、新約聖書の「カインとアベル」、ようは『エデンの東』の兄弟関係も見え隠れする。

    流石に今回の完全修復版は映像が、古い作品(特にイタリア映画だと保管状態が悪いケースが多い)だと縦線が入ったり、色味(今回はモノクロだが)が微妙に違ったりするが、全て修正されていて非常に美しい。
    改めて大画面の映画館で見る価値はある!

    -イタリア・ネオレアリズモの軌跡- 公式サイトはこちら

    『若者のすべて デジタル完全修復版』
    『郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル修復版』 2017年1月7日~
    『揺れる大地 デジタル修復版』 2017年1月21日~

    2016年12月24日(土)より新宿武蔵野館ほか全国順次公開

    アラン・ドロンとの出会いでリアリズムから耽美主義へ

    この作品を観ると、ヴィスコンティの二面性が見えてくる。
    一つはネオ・レアリズモの旗手としてのヴィスコンティと、もう一つは耽美主義的な作品を輩出したヴィスコンティ。
    『夏の嵐』以降に作品に見られる耽美主義的な側面と、それ以前の作品に見られたリアリズムが見事に融合している。

    イタリアの第二次世界大戦後の貧しい家族をリアリティに描くことの恐ろしさ。
    それを最も顕著に表現していたのは、ロッコ達5人兄弟の母親で有った。
    それは、お金に執着する姿...その度に背筋に冷たいものが走る。
    ヴィスコンティは、この母親を通してイタリアの戦後を描いてみせた。
    それはロッセリーニやデ・シーカの初期の作品に共通するものが有る。
    彼らの作品以上に、この作品(と言うかヴィスコンティ)が素晴らしいのは、リアリズムと同時に、そこに出てくる登場人物の描写が実に丹念で、その情念までも画面に映し出されてしまうことだ。

    rocco-e-i-suoi-fratelli

    と、同時にロッコ、シモーネとナディアとの三角関係を通して、愛の不毛を描いている。
    ロッコの聖人のような寛容な心とシモーネの世俗的な邪悪な心...それに翻弄される一人の女性ナディア。
    ヴィスコンティの後の作品『地獄に堕ちた勇者ども』と共通する、自由主義(個人主義)とロマン主義(全体主義)の対峙が既にそこに描かれている。

    この作品には、イタリアの貧しい生活を描いたリアリズムと同時に、人間に内在する2つの側面を兄弟を通して描いてみせる。
    人間の持つ欲望の恐ろしさを見事に描き、それが一つの家族を崩壊へと導く。
    第二次世界大戦直後という時代が、イタリアの人々、いや庶民の心を荒廃させた...本当の貧しさ、お金を持たないこと、それ以上に人を愛する心を失う事...いや、愛し方すら忘れた心、そんな思いを強く訴えかけてくる。

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    愛の不毛と言えば、ミケランジェロ・アントニーニを思い出す。
    彼はヴィスコンティの下で映画を学んだ、この作品を観ていて、ふとそんなことを思い出した。
    また、この作品でのアラン・ドロンは、実に生き生きして清々しい魅力を振りまいていた。
    『太陽がいっぱい』と並ぶ、いやそれ以上の彼の名演技だと思う。

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    映画『若者のすべて』のデータ

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    ROCCO EI SUOI FRATELLI 177分 1960年 イタリア=フランス

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■ゴッフリード・ロンバルド
    原作■ジョヴァンニ・テストーリ『ギゾルファ橋』
    原案■ルキノ・ヴィスコンティ/ヴァスコ・プラトリーニ
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/マッシモ・フランチオーザ/エンリコ・メディオーリ
    撮影■ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■マリオ・ガルブリア
    衣装■ピエロ・トージ
    助監督■リナルド・リッチ
    製作会社■ティタヌス/フィルム・マルソー
    備考■白黒
    日本初公開■1960年
    1960年12月27日日本公開時:140分
    1982年6月8日完全版日本公開時:177分
    2016年12月24日デジタル完全修復版日本公開時:179分
    出演■アラン・ドロン/アニー・ジラルド/レナート・サルヴァトーリ/クラウディア・カルディナーレ/カティーナ・パクシヌー/ロジェ・アンナ/パオロ・ストッパ/スピロス・フォーカス/マックス・カルティエール/ロッコ・ヴィドラッツィ/コラド・パーニ/アレッサンドラ・パナーロ/アドリアーナ・アスティ/シュジー・ドレール/クラウディア・モーリ

    ヴェネチア国際映画祭 1960年
    審査員特別賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ
    国際映画評論家連盟賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ

     巨匠ヴィスコンティが悠揚迫らぬタッチでつづる、兄弟愛の大ロマンである。
    南部で貧窮にあえいでいたパロンディ家は、先に北部の大都市ミラノに出稼ぎに来ていた長兄ヴィンチェを頼って、老いた母と兄弟4人でやって来る(冒頭、広大なミラノ駅をガラス張りの天井越しに眺める俯瞰ショットが小さな母子たちをパンして捉える。大作の予感が充ち満ちる)。長兄には同郷出身の婚約者ジネッタ(カルディナーレ)がいたが、田舎出の彼らに対する風当たりは厳しい。
    そして、次兄シモーネ(サルヴァトーリ)が主に登場する第二部へ。彼は三男のロッコ(ドロン)と共にプロ・ボクサーを目指しジムに入ったが、娼婦ナディア(ジラルド)に夢中になり、自らその可能性を潰して、悪の道に陥る。が、そのナディアはロッコを愛し始め、これに憤ったシモーネは仲間と共に、ロッコの目の前で彼女を犯す(まさに圧巻の場面!)。ロッコのお蔭で立ち直りかけていたナディアだが、輪姦に心深く傷つき、再び街娼へと逆戻りした。
    そして第三部ロッコ篇。ロッコもまたナディアを諦めた。クリーニング店で地道に働いていたのだが、それも辞め、一家の期待を一身にボクサー稼業へ舞い戻る。一方、シモーネの暮らしは荒れに荒れ、結局、ナディアを誘ったバカンス旅行(豪華な園遊会を開くホテルを前にたたずむ二人が妙に寒々しかったのが記憶に残る)で彼女を殺してしまう(夜、森の池のそばで。これも凄まじいシーン)。ロッコがボクサーに復帰して5年経っていた。いよいよチャンピオンとなった彼を祝っている時、憔悴しきったシモーネが家に帰ってくる。彼にとことん侮辱され、また愛した女を殺されたロッコではあったが、今は何も言わず、泣きながら兄を抱き締めるのだった・・・。

     このネオレアリズモの総集編のような壮大な叙事詩を放ってのち、ヴィスコンティは、より典雅で耽美的かつ様式的な貴族階級を描く独自の世界に没入していくことになる。

  • 映画『白夜』 ヴィスコンティが描くドストエフスキーの世界

    映画『白夜』 ヴィスコンティが描くドストエフスキーの世界

    映画『白夜』 LE NOTTI BLANCH

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    ラストの雪の中のシーンが残酷で美しい

    ヴィスコンティ作品の中で、これ程、特殊な作品だったとは...初めて観た時、驚きも感じた。
    ある種、ヴィスコンティのイタリア、ネオレアリズモとの決別とも言える。
    それは、この作品がセットで撮られた事、それによる、より舞台的な演出がなされていること。
    しかし、ネオレアリズモとはかけ離れたところに行ったとしても、それはリアリズムの否定にはなっていない。
    この作品は、舞台的、また箱庭的で有ることで、より俳優の個性が観客側に強い印象を与える。
    そう、この物語では、全ての背景が排除されている、シェル演じる女性が愛した、ジャン・マレー演じる下宿人が何処へ行ったのか、 どういう人物なのか、マストロヤンニはどこから来たのか?純粋に登場人物の感情の表現だけで話が進んでいく。

    主演のマストロヤンニは、この作品で初めてヴィスコンティ映画に出演する。
    既に舞台では一緒に仕事をしている二人だが...
    マストロヤンニはイタリア男らしく、ある種、軽薄で有りながら、それでいて愛情深い男を見事に演じきっている。
    マリア・シェルは、ヴィスコンティの他の作品の女性像から少し離れたところに有る。
    それは少し夢想的な少女の趣を持っている。
    私は彼女に魅了されてしまった。
    出演場面は少ないが威風堂々としたジャン・マレーと、夢見る少女的なシェルとは正反対の娼婦役を演じたクララ・カラマイも印象的 だ。

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    マストロヤンニは幸せから不幸へ、マリア・シェルは不幸から幸福へ、このコントラストが限られた登場人物の中で色鮮やかに映し出される、映像は白黒なのに。
    私の好きなシーンに、マストロヤンニとシェルの最後の夜に酒場で踊るところ。
    二人が一時的に幸せに盛り上がる。
    心が揺れて、一瞬、二人の心が交差する、そうダンスを踊る二人の肉体のように。
    しかし、このシーンは実は二人の幸福と不幸が見事に入れ替わる象徴的なシーンであった。
    そして時間を知り、走り出すシェル...
    映像の持つ美しさと怖さが見事に表現されている、例えそれが演劇的な様式美であったとしても。

    le-notti-blanch

    暗く沈み込むようなストーリーを、美しく映像化し、そこに有るのは、人を愛する人間(マストロヤンニとシェル)へのヴィスコンティの深い愛情の現れだった。
    ラストの雪の中でのシーンは残酷で美しい...それこそが、ヴィスコンティの描くドストエフスキーの世界なのかもしれない。

     

    映画『白夜』のデータ

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    LE NOTTI BLANCH/QUATER NUITS D’UN REVEUR 107分 1957年 イタリア

    監督■ルキノ・ヴィスコンティ
    製作■フランコ・クリスタルディ
    原作■フョードル・ドストエフスキー
    脚本■ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    撮影■ジュゼッペ・ロトゥンノ
    音楽■ニーノ・ロータ
    編集■マリオ・セランドレイ
    美術■マリオ・キアーリ/マリオ・ガルブリア
    衣装■ピエロ・トージ
    助監督■リナルド・リッチ
    製作会社■CIASヴィデス/アンテルモンディア
    備考■白黒
    日本公開■1958年
    出演■マルチェロ・マストロヤンニ/マリア・シェル/ジャン・マレエ/クララ・カラマイ/マルチェラ・ロヴェーナ/ディック・サンダース/マリア・ザノッリ/フェルディナンド・グエルラ/レオニルデ・モンテージ/アンナ・フィリッピーニ/ロマーノ・バルビエーリ

    ヴェネチア国際映画祭 1957年
    サン・マルコ銀獅子賞授賞 ルキノ・ヴィスコンティ

    【解説】
     貴族の側に立つにしろ、プロレタリアートの代弁者になるにせよ、ヴィスコンティの視線は常に冷ややかに透徹していたが、この悲恋物語は雪に閉ざされ残酷な結末が用意されているにも関わらず、ほのぼのと暖かい印象で胸に残るのは、即ち、主人公の青年(マストロヤンニ)に対し注ぐ彼の温かな眼差しゆえに他ならない。港町で青年マリオは橋上でたそがれる一人の娘ナタリア(シェル)を見初める。一年前に再会を約束した恋人を毎晩そこで待ちわびているのだ、と言う彼女、ナタリアをなんとか踊りに誘い出すマリオ。R&Rに合わせ愉快に踊って笑わせた後、曲は主題歌“スクーザミ”に替ってチーク・タイム。喜びに輝く青年の表情を見るうち、娘の心も彼に傾きかけたが、肩に回した彼の腕時計が無常に時を刻むのをふと目にし、その秒針の音にせき立てられるように橋上へ再び駆け出してゆく。しかし、待ち人はいない。降り始めた雪の中、追いかけてきたマリオと静かに語らうと心は休まった。そして夜は明けるが……。すべてが、セットという箱庭に咲かせた愛の白い花のごとき印象。ロトゥンノのカメラはこの人工美に確かな命を吹き込んでいる。(映画データベース – allcinema より)